私の故郷である佐賀県鳥栖市は国鉄の分岐点ということもあって、国労が強く、必然的に社会党の強い地盤として知られていた。私の両親は専売公社鳥栖工場に勤務する公社員であり、父親は労働組合(社会党系)の専従を務めていた。一般の勤務員と異なり、手当が少ないことを母親が時折ぼやいていたことを思い出す。それでも労働組合は組合員の利害を一身に背負って経営側と交渉する立場であり、父親は組合員から大きな信頼を寄せられていることが子どもながらよくわかり、それが誇らしかったことを覚えている。私は当時信仰を持っていなかったが、人に奉仕する姿勢を教わったのは父親の背中からである。小学生時代、父親に頼まれて地域の配達を任されたのが社会党機関紙「社会新報」だった。後年、東京の大学に進み卒業後、「社会新報」編集部で記者として3年ほど仕事をする機会に恵まれたが、私の記者経験の基本はこの時代に培われた。同党は自民党のアンチテーゼであり、多くの人権活動の受け皿でもあった(共産党との確執はあった)。部落問題、アイヌ問題、在日コリアン問題、ニューカマー外国人の問題。人権問題では大きく4つの柱があったが、私が取材する機会が多かったのは後者の2つで、独立してからも長らく同じ問題を追いかけた。神奈川県湯河原町に住むツルネン・マルティさんを取材したのは社会新報の時代である。フィンランド生まれで日本人女性と結婚し、日本国籍を取得した同氏は湯河原町議として“青い目をした議員”として注目を集めていた(その後、民主党で国会議員も務めた)。当時、私はすでに創価学会の信仰を始めていたが、池田名誉会長が「21世紀は平和と人権の世紀になる」と述べているのを機関紙で読んで、社会党も似たようなものだなと思って仕事をしていた。同党退職後、フリーのライターとして独立し、公明党で外国人地方参政権付与問題に熱心だった冬柴鉄三代議士を取材した(まだ同氏がヒラ議員であった時代だ)。その後、公明党は民主党とともに永住外国人地方参政権法案を国会提出し、国会審議も実際に行われたが、「採決」に至ることはなかった。この問題が成立直前まで行ったのは、民主党政権の時期だったが、右派勢力の反対で潰された。その後の安倍政治の中で外国人参政権は「頭のおかしい人間が主張するトンデモ法案」との印象操作が蓄積され、現在に至る。私はこの“時代の空気”を反転させることに、残りの人生を賭けたいと思う。