さまざまな問題は人間の特性というものを深掘りしない限り、解決の糸口を見出しえない。この素朴な疑問から人間の本質を探究し、人間自身の内面を変革することで社会変革を試みる。この場合の人間は人類と同義であり、すなわちホモ・サピエンスの内面変革ということになる。その概念をわかりやすく説明すると、他責思考から自責思考への転換と言い替えてもよいのではなかろうか。人間は自分自身を含め、周りを見渡しても、現在の兵庫県知事やその周辺の多くの問題などもわかりやすい一例に思えるが、人格的に謙虚な人間ほど、他責ではなく、自責思考ということが言えるはずだ。より社会的にいえば、旧日本軍の罪責を歴史的事実を捻じ曲げてでも日本は悪くなかったと結論づけて主張したい人間が急拡大している昨今の日本社会の現状は、「他責思考」の拡大の最たるものに映る。要するに子どもの行動と同じで、「ボク悪くないもーん」がそのまま大人になった姿と考えればわかりやすい。その結果、日本が悪いのではなく、韓国が悪い、北朝鮮が悪い、中国が悪いという主張になってあふれ返る。翻って現在の紛争地帯も、この論理のぶつかり合いの様相が当然ながら強い。その意味で、紛争の本質というものは、古今東西何ら変わっておらず、極めてシンプルに見える。「他責」から「自責」へ――。この変化のベクトルは、人類の宿命転換がどれだけ進んだかを計るためのリトマス試験紙の働きをするのではないかとふと考えたのは最近のことだ。