排除と包摂

日本社会の外国人比率は現在2%。欧米諸外国はすでに10%を優に超えるので、日本はこれでもまだ均質社会といえるが、すでに移民社会に移行していることは事実だ。外国人の受け入れ(労働者含む)に対し、日本社会が変質することをおそれるこの国の限界右翼(極右勢力)はこの問題にとても敏感なようで、最近も埼玉県川口市のクルド人に関するいざこざで、クルド人に「国に帰れ」と叫ぶ石井某や門田某のようなジャーナリストがいた。いわゆるこれらは「排除の論理」だ。ただしこの国はすでにそのような心情的な強硬論では立ち行かない現実がある。諸外国の外国人受け入れの成否を教訓として日本は賢明に立ち振る舞える立ち位置にいる。そのとき日本のガンとなるのは、日本社会に根づく「排除の倫理」の精神性にあると認識している。一方、冒頭のフレーズを自身の政党の中で勇気をもって発言したのは神奈川の一女性議員だった。私は2024年1月の日本共産党大会で行われた大山奈々子代議員の短いスピーチが、歴史に正しく位置づけられる日が必ず来るものと確信している。その言葉の中にこれからの時代に必要とされる普遍的な価値が備わっていたと感じるからだ。一方で田村委員長(発言時は副委員長)が行ったパワハラ演説とされる“壇上からの叱責”は、党官僚の主張の範疇を1ミリも越えない内容だった。その意味で、彼女の演説が肯定的な意味合いで歴史に残ることはありえない。排除の論理は「戦争の文化」につながるものであり、包摂の論理は「平和の文化」につながるものだろう。包摂の論理を、日本社会全体の価値としていく必要がある。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。