憎悪の克服がすべての本質

昨日、国立競技場で若者を主体とする大規模集会が開催された。核兵器廃絶と気候変動問題を主たるテーマに、多くの芸能人などがゲスト参加し、固いテーマに華やかさと音楽が融合していた。ゲストの一人、国連広報センターの根本かおる所長のなにげない言葉が私には重くのしかかった。世界の軍事費が過去最高を更新している事実、さらにその膨大な軍事予算を気候変動問題やSDGs達成のための取り組みに廻したほうがよいという当然の訴えだった。

20世紀の過去、「平和の21世紀をめざして」というのが共通の合言葉だったが、その望みはアメリカの2001年の9・11で壊され、いまや平和どころか、世界のあちこちで戦争が起き、互いの不信感から、国の防御のためのカネを野放図に使う状況となっている。国家としての日本も例外でない。人間という名のサルにとって、憎悪という感情を制御できない結果の現状にほかならない。問題は憎悪感情を制御できない「人間」という存在にこそ求められるものだ。仮想敵である「相手」ではなく、「自分」という自己の内面の問題でもある。人類という名のサル社会において、サル同士が緊張関係を高め、互いにピリピリし、暴力を誘発し、社会全体が殺気立っている。これが現在のホモ・サピエンス界の現状だ。そうした状況を反転させるために、若者を先頭に、こんご、教団本体が主体的に、かつ内発的に深められるような社会運動と、国民運動とのさらなる連動が必要になってくると感じる。

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