劣化した文章の『尖閣1945』

小生の文章の師・大隈秀夫は“文章の直し屋”の異名をとる文章指導の大家として知られていた。ロングセラー本『文章の実習』(日本エディタースクール出版部)はマスコミ受験を志した人なら一度は手に取った向きも多いはずだ。その師匠は文章指導において幾つか象徴的な指導を残している。その一つに「『のである』を使うな」というものがある。「のである」と「である」はその用法がまったく異なる。「のである」はいわば強調を意図した技法であり、そこには自分という主観が大きく入り込む言葉だ。だから新聞記者出身で乾いた文章を好んだ恩師は、こんな安易な技法を用いないで文章を作成せよと常々語っていた。だが門田隆将著『尖閣1945』を開いてきづくことは、この「のである」が随所に頻出し、読んでいられないという代物になっている。「のである」を多用する物書きは、やはり自己顕示欲が強い証明ともいえる。常に自分の顔写真をさらす姿も、かつての自己顕示欲の塊であった内藤国夫とソックリだが、文章にも明らかにその傾向が見て取れる。こんな劣化した文章で綴られるイデオロギー・ノンフィクションに感動するのは、やはり一部の層に限られるのだろう。

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