本日付毎日新聞に「カンボジア選挙監視中殺害30年 中田さん追悼式」の共同電の記事が掲載されていた。1993年4月、国連ボランティアとしてカンボジアで選挙監視活動を行っていた当時25歳の日本人青年が凶弾に倒れた。すでにそのころ政府派遣の選挙監視団の一員として国内研修を終えていた私たち日本人選挙監視団の「内定組」に激震が入った。私たちのような民間人と、地方自治体職員の計50人近くが翌月の現地派遣に備えて準備していたが、その後、「辞退者」が続出したからだ。5月に入って日本人文民警察官の銃撃事件が起きてそれはピークに達した。岡山県警から派遣されていた高田警視が命を落としている。そのころ、私も銃撃される夢を見て、うなされたことがあった。
結論として43人が現地へ渡ったが、思えば精神的には「命懸け」だった。客観情況としてはどうなるかまったくわからないというのが真相であったからだ。送り出したPKО本部長自身、この中から何人が犠牲になるだろうかと、成田市のホテルで催された壮行会において内心では思っていたという話を後で伝え聞いたことがある。当時は自衛隊を初めて国外派遣することで「海外派兵」などの言葉が飛び交い、国論が二分された時代だった。
当時私はフリーライターであり、カンボジアを現地取材したいという強い希望をもっていたが、カネ(渡航費用)がなかった。ルポライターの鎌田慧さんが若き時代に自動車工場に労働者として潜入し、取材と労働を両方行った事例に学んで政府派遣の選挙監視団に応募したのが実態だった。なぜか運よく入ることができた。本当の目的は「取材」というか、現地を自分の目と耳で体験することにあったから、その意味でも「辞退」の選択はありえなかった。戦争を体験していた大正生まれの恩師は、「危なくなったら逃げなさい」という当たり前の、それでいて重みのある助言をしてくれたことを思い出す。加えて、当時の私は九州人の自覚から、自分よりもアジアのために何かしたいという気持ちにあふれていた。懐かしい日々が甦る。