公明政治連盟への指針から60年

本日は創価学会の池田会長(当時)が公明党の前身組織である公明政治連盟に対し、基本となる姿勢を示して60年のその日となる。1962(昭和37)年9月13日、場所は東京・豊島公会堂だった。60年前の1月、池田会長にかかっていた大阪事件の無罪判決が確定し、判決の翌日、創価学会が本部幹部会において公明政治連盟の結成を発表した。それまで無所属候補として教団から押していた形を、「政治団体」として押す形に変えたのだった。同年4月、戸田会長の命日を期して「公明新聞」(当初は月2回刊)が発刊され、公明政治連盟の初陣となった7月1日の参院選(教団としては3回目の参院選)で9人全員の当選を果たし、参院で15議席の勢力を確保。院内会派「公明会」が初めて誕生する。その流れの中で、同年秋から翌年春にかけ、各方面で公明会結成を記念する大会が開催されるが、冒頭を飾ったのが9月13日に東京で開かれた公明政治連盟の第1回全国大会だった。そこで池田会長は「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」との指針を示したことが淵源だ。

翌年(昭和38)年4月の統一地方選挙(教団として3回目の地方選)では、都議候補者17人が全員当選し、昭和39年の正式な政党としての「公明党」結党につながっていく。

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