客観を装うイデオロギーノンフィクション

私は大学時代にノンフィクション研究会に籍を置いた。未熟ながら仲間たちとさまざまなノンフィクション作品を読み漁り、作家に会いに行った。そうした経験をもとに、この分野には多少のこだわりがある。「事実をもって語らしめる」というのが当時の流行り言葉だったが、いまは違う感慨ももつ。事実というものは実は無数にあり、どれを選ぶかに作家の思想や感情が反映されるからだ。つまり作家が自分で事実を切り取った時点で、そこには「作為」が生じる。たとえば客観的なノンフィクションを装いながら、実際は「日本人はすばらしい民族」といった特殊なイデオロギーを啓蒙するために活動しているとしか思えないような作家もいる。

門田某の描いた作品などを読んでみればすぐにわかるが、典型的なイデオロギー作品である。そのため、「日本人はすばらしい」という結論に結びつかない事実は、ほとんどが捨てられる。自分の意に沿った材料だけが集められることになる。これでは本当の意味でのノンフィクションとはいえないだろう。ノンフィクションとは、事実に宿る重みの力で訴えるためのジャンルであって、イデオロギーが先行しているようでは、その作品の価値はガタ落ちする。門田某の場合、客観的な作品を装っているだけに、犯意はより酷いといえるだろう。実際、その目的と本質が明らかになってしまえば、これほどわかりやすいものもない。彼の描く戦争物はすべて上記の意図に沿ったものばかりであるし、原発事故を扱った作品も、新型コロナを扱った作品もすべて同様である。最後の結論はみな「日本人はすばらしい」だ。結論だけが最初から決まっていて、途中の材料はその意図に沿うものだけを集めてくる。これではノンフィクションふうのプロパガンダ作品としか言いようがない。

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