宗教団体としての日本共産党

結論として、日本共産党は理論が極めていい加減な政党である。仮に宗教団体に当てはめてみれば、自らの信仰の対象である「本尊」を身勝手にコロコロと変えてしまうようないい加減さといってよいだろう。

もともとソ連共産党の主導するコミンテルン(国際共産党)の日本支部として結成されたこの党の当初の本尊は「ソ連」であり、その後に続いた中国や北朝鮮などの「社会主義国」だった。当時、日本共産党にとってソ連はまるで完全無欠の「全能の神」のような存在であり、それらは「楽園」という言葉で機関紙上でも形容された。まだ恋愛慣れしていない若者が異性にぞっこんとなり、欠点もまったく見えなくなっている状態に似ている。だがそのソ連などにも、多くの欠点があることが徐々に明らかになると、同党は徐々に態度を改め始める。つまり、ソ連という「教祖」に頼っていた時代から、「自分教」を説く路線に転じることになった。要するに、宗教の分派過程といってよい。

結論として、彼らは今なんと言っているか。「ソ連も中国も(正しい)社会主義ではなかった」「後進国で社会主義はうまくいかない」「資本主義の発達した日本だからこそ、社会主義はうまく機能する可能性がある」(趣旨)。つまり、彼らの現在の本尊は、あくまでも「自分」自身だ。

このような態度を中国などから見ると、日本共産党は100年近くも「共産党」の名称を名乗りながら、いまだ一度も権力を握ったことがない「青二才」の存在にしか見えないだろう。スポーツの世界でもそうだろうが、スタンドからあるいはテレビを見て観戦するのと、実際に自分でプレーするのとでは雲泥の差がある。気楽な観戦者にすぎない日本共産党が、プレーヤーとして長年苦闘してきた中国共産党を批判するのはたやすいことだろうが、中国からみれば単なる「ガキの論理」にしか見えないだろう。

いずれにせよ、日本共産党の政治活動(信仰)の根幹である「本尊」が、歴史的に完全に入れ替わったことは明白だ。本尊を都合よくコロコロと変更し、最終的に「自分自身」を本尊と仰ぐ政党が、まともな政治団体といえるだろうか。

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