「政党の命」(志位和夫)を粗末にする詐欺体質の共産党

政党にとって綱領とは、政党の命に等しいものだ。だがその綱領を「あれは正式な綱領ではなかった」などと過去の自らの綱領を否定する政党が日本に一つだけ存在する。いうまでもなく、日本共産党だ。

同党は1951年、ソ連や中国に押される形で暴力革命綱領「51年綱領」を採択した。その綱領に基づき、同党は全国各地で火炎瓶闘争を展開(その後の新左翼の走り)し、善良な国民市民を不安のどん底に陥れた。警察官2人を殺害し、正真正銘の「人殺し政党」となった。だが同党はこの殺害行為をいまに至るまで70年間、きちんと反省したことがない。

「51年綱領」は当時のだれもが認める正式な綱領だった。それはその時代の党機関紙「アカハタ」を見れば明らかだ。若き日の不破哲三前議長もそのことを前提に著作を執筆している。同党の現在をつくった宮本顕治元議長は分裂した党が正式合流した1955年の段階においても、この暴力革命綱領である「51年綱領」を「かがやかしい綱領」などと美辞麗句で持ち上げ、絶賛していた。だがさすがにこの路線が日本社会で支持されないとみた当時の同党は、1958年の党大会で同綱領を撤回し、61年に新たな綱領を制定した。そこでは暴力革命と平和革命の両面作戦でいくことになるが、綱領にはあえてその両面作戦を明文化しないという方針をとった。

1962年に党中央委員会が発行した『日本共産党綱領集』には、「51年綱領」は同党の過去の綱領として掲載されている。当然のことだろう。だがその「51年綱領」は1970年になって何の予告もなく、『同綱領集』から突然、秘かに削除された。

今になって都合の悪い綱領として、抹殺するしかなくなったのだ。自分たちの真実の過去の歴史を、自分たちで葬り去った姿にほかならない。このときの執行部は、宮本顕治委員長・不破哲三書記局長の体制であった。

その総仕上げは、不破委員長・志位委員長の時代に行われた。93年、「51年綱領」を「51年文書」と名称変更する歴史改ざんを明確にしたからだ。その意味で、現在の志位和夫委員長は、党史改ざんの「A級戦犯」にほかならない。事実を隠蔽し、誤魔化し、綺麗ごとを並べる。同党の歴史の根本にあるのがぬぐいがたい虚偽体質であることは明らかである。

●日本共産党「歴史改ざん」の歩み

1951年10月 暴力革命綱領「51年綱領」を採択

1955年7月 宮本顕治氏が同綱領を絶賛

1958年7月 党大会で同綱領を撤回

1962年11月 『日本共産党綱領集』に「51年綱領」を過去の綱領として掲載

1970年8月 『日本共産党綱領集』から「51年綱領」を秘かに削除

1993年6月 不破・志位体制のもと『51年文書』に名称変更

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