嘘のない政治は実現不可能なのか

まともな会社、団体、組織は必ず賞と罰を明確にする。「信賞必罰」の語に象徴されるが、功績があれば賞を与え、罪があれば必ず罰する。賞罰のけじめを厳正にし、確実に行う。もしこの原則がなおざりにされるとすれば、その会社、団体、組織は健全さを失い、いびつな状況が生まれ、いずれ崩壊に向かうだろう。その場しのぎにすぎないからだ。その最たる事例を見せてくれているのが、いまの安倍政治だ。

 やはり顕著な転換点は森友問題にあったと思われる。安倍首相が国会で「自分や妻が関わっていたら総理も議員も辞める」と大見えを切ったばかりに、財務省幹部は国会で虚偽答弁をつづけ、職員らは公文書の改ざんにまで手を染めた。そしてノンキャリア職員の一人は自殺にまで至った。財務省内で改ざんに協力した中心者らは、犯罪者として投獄されるどころか、逆に国税庁長官などに昇進した。罰を与えられるべき人間が、あべこべに、賞を与えられた。もちろんこの人物は犯罪の最終責任者ではない。命令したと見られている官邸官僚は、いまも何の罪もえないまま、官邸内で力を保ったままだ。

 まともな組織体であれば、実はこの時点で、第2次安倍政権は終わっていたはずである。

  だが検察幹部には、この事件を起訴しない動きも出てきた。仮に起訴していれば、だれが指示したかも当然問われる事態につながる。そのことは安倍政権の中枢が崩壊することを意味し、第二の民主党政権のようなものが生まれる事態も想定された。

 よく言われることだが、ひとが一つのウソをついた場合、その一つのウソを成り立たせるために、「さらなるウソ」をつかなければならない羽目に陥る。その結果、「ウソ」の数は増える一方となる。結局、政治そのものがウソまみれに陥る。今回の検察官定年延長問題も、そうしたウソを成り立たせるための必然的な強硬策の結果の一つにすぎない。

 結論として、安倍政治はウソにまみれた政治だ。「信賞必罰」を欠いた結果、体質自体がそのような政権になってしまった。かといって、それを批判攻撃する野党がまともかといえばそうではない。野党の中心となっている日本共産党など、歴史的にみれば同じようにウソにまみれた政党だ。ウソの年季という意味では、むしろ日本共産党のほうがずっと上位に位置するかもしれない。 問題は、日本の政治が与党も野党も、このようなウソまみれのままでよいのかということである。 その意味では、与党を一方的に非難・称揚することも、あるいは野党に同じ態度をとることも、私には間違いに思える。問題はこのようなわが国の政治風土そのものにある。

 民主主義は有権者のレベルの反映にすぎないという言葉があるが、原理的にみればそれはその通りだろう。有権者一人ひとりが賢くレベルアップしていく以外に、その国家の政府も向上することはないと思われる。 汚濁まみれの日本政界の中にあって、クリーンを売り物に参入した公明党の役割は、このようなウソの政治を払拭することにあったはずだ。その使命はいまも変わっていないはずである。 はっきり申し述べるが、日本の政治は、他国に対して胸を張って誇れるようなものになっていない。何より政治指導者には、誠実、高潔さが求められる。

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