今からちょうど60年前の1959(昭和34)年は、6月2日に参議院選挙が行われた。創価学会が政界に人材を送り出した国政選挙としては2度目の機会となる選挙だった。最初の国政への挑戦は56(昭和31)年で、このとき大阪地方区と全国区2人、計3人の国会議員を生み出している。この最初の戦いで、東京地方区では候補者を次点で落としていた。その意味で、東京としては捲土重来を期しての戦いとなった。 候補者は柏原ヤス。42歳。戦後の草創期の創価学会の中では婦人活動家のシンボルと見なされた存在で元教育者。戸田第2代会長からの信頼も厚かった。 この参院選で、創価学会候補は無所属として戦い、学会色は意図的に出さなかったようだ。東京では多くの候補者が乱立。当初の新聞予想では柏原は最下位の4位で当選するかもしれない(読売)などと予測されたにすぎなかった。ところがフタを明けてみると、47万票を獲得してトップ当選。2位の市川房枝を大きく引き離しての勝利となった。定数4の議席に、当時の革新勢力の雄であった社会党は3人もの候補者を乱立させ、次点、次々点、次々々点で全員を落選させている。 創価学会はこの参院選で、東京で初めて国政の議席を得ると同時に、全国区でも5人全員を当選させ、この選挙だけで6人の国会議員を新たに生み出した。非改選の3人と合わせ9人に増えたため、世間の注目を一気に集める結果となったのは歴史の事実である。 この1959年がどのような年であったか。前年4月に第2代戸田会長が逝去し、教団において会長職は「不在」の時代だった。56年の参院選で大阪地方区で「まさかが実現」(朝日)と書き立てられた勝利を指揮したのは、若き日の池田名誉会長だった。その後、59年は創価学会総務の立場で、東京および全体の指揮をとっている。東京が見事に捲土重来を果した背景には、池田名誉会長の采配があった。 このとき、大阪地方区に創価学会は候補者を出していない。32年の大阪地方区補選に候補者を出し、選挙違反事件で池田総務も刑事被告人の立場にあった(その後、無罪判決)。また東京の完全勝利を期するためには、東京と大阪にエネルギーを分散させない意図もあったと思われる。 公明党という組織も、その前身となる公明政治連盟もまだ存在しない、教団のまぎれもない草創期の時代の話である。 当時の新聞記事には、3人を全員落とした社会党の東京都責任者の落胆した声が残っている。それによると、その責任者の妻にまで、学会員が投票してほしいと頼んできた逸話を紹介、驚いている。このエピソードは、大阪地方区での勝利の方程式がそのまま、3年後に東京で「再現」されたことを示している。 会長就任前の若き日の池田名誉会長が、陰で直接指揮をとり、「全国完全勝利」を導いた参院選挙から60年――。今回も過去最高の参院議席をめざす戦いは、60年前と何ら変わらない。