安倍晋三とゴルバチョフの格の違い

ソ連最後の党書記長となったゴルバチョフ元大統領は、立ち行かなくなりつつあった「帝国」を改革するためにグラスノスチ(情報公開)を掲げた。民主主義国家においては当たり前のことだろうが、共産主義の総本山がそこに目をつけたのは指導者としての先見性であったと思われる。共産主義社会に「人間主義」の光を当てるには、そうするしかないという考えがあったと思われる。一般に、民主主義が機能した社会かどうかは、情報公開のあり方とその実態を見れば明らかだ。

ゴルバチョフ氏は共産主義国に社会民主主義を取り入れようと試みたが、その結果が91年のソ連崩壊となったことは歴史の事実だ。ただし政治家として、大国の最高権力者として、その方向性は間違いであったとは私は思わない。

一方で日本ではすでにかなり遅い時期の制定となったものの、国レベルの情報公開法が存在し、何より日本は旧ソ連と異なり、自由主義社会だ。情報公開の理念を社会に定着させようとする最高権力者の意志があればいくらでも推進が可能なはずだが、安倍元首相はそれとは反対の行動を延々と続けてきた。自らにふりかかった疑惑については「隠蔽」をどこまでも貫き、財務省の末端には文書改ざんまで結果的に行わせた。自らの疑惑に関する説明でも、すぐにばれるような嘘を国会議事堂の中で平然と繰り返してきた。そこに良心の呵責は見られない。

ソ連といういわば“逆境”ともいえる社会環境の中で「情報公開」を掲げた一人の最高権力者と、自由社会にありながらその根幹ともいえる情報公開原則を自ら投げ捨て、保身のためにウソをつき続けた日本の最高権力者。2人の国民に対するスタンスはまさに正反対ともいえる。奇しくも同じ年の7月と8月に生涯を終えた2人だが、葬儀の形が国葬であろうと、さびしく葬られた形であろうと、その業績の重さに葬儀の形は影響を与えない。後世の歴史において評価されるのはやはりゴルバチョフ氏の真摯な姿勢であり、国民のためではなく自らの保身のために息を吐くように国民にウソをつき続けた最高権力者でないことは明らかだ。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。