空手普及100年

沖縄本島出身の富名腰義珍が東京出張を終えたあとの帰琉日程をとりやめ、東京に残って空手普及を始めてちょうど100年となる時期である。富名腰はその後船越と名を変えて日本空手界に名を残す存在となった。問題は当時の沖縄空手をそのままの形で普及することができなかった事実だ。20世紀初頭に沖縄で創作された型平安(ピンアンとかヘイアンとか呼ぶ)も、東京に来て、その動作などが大きく改変された。まず1と2が交換される形となった。現在のピンアン2は比較的難しい動作が多いとされるものだが、腕受け前蹴りの場面が、裏拳横蹴りに改変されるなど、原型とはほど遠いアクロバット空手に改変されている。私がそうした事実に興味をもつようになったのは、たまたま沖縄の空手講習会に参加しようと思いたち、空手の歴史を考えるようになってからだ。東京で普及された空手が、見るも無残に改竄されている実態を知るに及んで驚きを通り越し、深い興味をもつように至った。もともとピンアンはクーサンクー、パッサイ、チントウなど首里手空手の粋の中から動作を取り出し、教育用につなぎ合わせたものとされる。そこには沖縄空手の根本理念が宿されていたはずだが、日本本土に来て西洋式スポーツふうに安易に改変されてしまった。この問題はやはり沖縄に戻るしかないのである。

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