2人の小学校教師の想い出

私は佐賀県の小さな自治体で小学校時代を送った。2人の対照的な教師に巡り合っている。高学年の2年間にお世話になった女性教師は、いまでいえばゴリゴリの共産党教師だった。悪い意味で生きがいに燃えており、この先生からのゲンコツは「原爆」と恐れられるほど強力だった。この先生はクラスを6つの班に分けて子どもによる自治組織をつくり、毎週持ち回りで担当班に「今週のトップ班」「ビリ班」を認定させ、発表させた。土足などの校則違反をした人間が出た班はその週の「ビリ班」になるといった具合だった。その結果、「子ども警察」が横行することになった。のちに小学校教諭になった同級生に確認したところでも、あの教育方針は「異常」だったと振り返る。その先生に個人的に恨みをもっているわけではないが、その記憶はあまりにも鮮明だ。

 一方で、その前の学年で習った先生は本人はまだ信仰していなかったが、奥さんが熱心な創価学会員の男性教諭だった。その先生は子どものやる気と個性を伸ばすことが上手な人で、私が落ちこぼれから個性を発揮する子どもに変われたのはこの先生のお陰である。「ことしは習字を頑張りたい」などと決意文を書くと、たいして上手でもないのに、その先生は市に提出する候補作に私を推薦してくれたりした。今の私があるのはその先生が子ども時代の長所を伸ばしてくれたおかげである。その意味では子どものころから法華経の影響を受けてきた。

 2人の教師のバックボーンには異なる理念と信念が影響していた。後年、この2つの対称性はそのまま大人世界(政治)にも当てはまると考えるようになった。

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