安倍政治の終えん

一つの政体が有権者に尽くしているかどうかの一つの尺度は「情報公開」のあり方に求められる。わかりやすくいえば、有権者への説明責任、説明能力ということになるだろうが、情報公開はそれとは別の制度的なものだ。公文書をどれだけ誠実に社会構成員に示すかという態度にそれは現れる。一般に隠すことが歴史的に定着してきた日本では、この法律をつくるのも一苦労だったが、93年の自民党一党政権の崩壊以降、この動きが進んだことは「政権交代」の効用といえよう。問題はその民主的な手続きともいえる制度を進化・発展させるどころか、逆戻りさせたことにある。その象徴はいうまでもなく安倍政治であった。安倍元首相の国会での不用意な発言(自分や妻が森友問題に関わっていれば議員を辞める)によって、財務官僚が公文書の改ざんに手を染める事態に至ったからだ。安倍首相がまともな首相であれば、自ら議員辞職するか、公文書改ざんに手を染めた役人全員を後世のために厳しく処分したであろうことはいうまでもない。だが元首相は、彼らを逆に出世させた。ここに役人のモラルハザードはピークを迎えたといってもよい。要するに仕事に「正義」がなくなった瞬間だった。

それを形成したのが、時の首相の「保身」であった事実は歴史に刻まれる。このような経緯や事実は隠そうとしても、後世に明確に残される。安倍首相が首相として後世の人びとに根本的に評価されないであろう最大の原因は、こうした行為による(と私は考える)。安倍政治は情報公開の制度的な仕組みを後退させただけでなく、通常の説明責任においても、はぐらかしやゴマカシが常態化した。そのため、普通のふるまいのはずの岸田新首相の説明が、以前と比べて「丁寧」に見えるのは皮肉な現象といえる。

繰り返すが、情報公開制度は、政治や社会が間違った方向に行くことを防止するためのチェック機能であり、社会上の重要なインフラだ。この重要性がわからない政治家は、結局のところ、国民・有権者・市民を信頼していない政治家と言い換えられる。公明党が本当の意味での「クリーン政党」であるのなら、この制度を根本的に進化させ、機能するように尽力するべきだろう。

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