空手随想 4

極真流派の型

沖縄の空手には大きく2つの流れがあることは有名だ。「首里手」および「那覇手」と呼ばれるもので、前者が松濤館流や糸東流、後者が剛柔流などに受け継がれる。もともと極真空手は剛柔流の影響を強く受けていることは明白で、極真流派に受け継がれている型の多くが那覇手から来ている。代表格が「サンチン」の型だ。一方、極真空手の創始者は、松濤館でも修行した関係で、そちらの系統の型も入り混じっている。とはいえ、それは「首里手」そのものの型というよりも、松濤館という本土空手をワンクッション置いたものである。その結果、「首里手」の代表的な型にほかならない「ナイファンチ」も、極真流派ではほとんどが必須の型とはされていない。

ちなみに極真3大流派の現状を見てみると、新極真会の公式型ビデオに、ナイファンチは収録されていない。また極真会館(松井派)も同様で、わずかに「移動と型」と題するビデオに収録されているものは、松濤館流の「鉄騎」である。

一方、極真館の公式型ビデオには、ナイファンチン初段が収録されている。ただしその内容は「鉄騎」に近いものというのが筆者の個人的見解だ。

沖縄の空手家の型は多くの映像で確認できるが、彼らのナイファンチは、腰を落として構える騎馬立ちでなく、ナイファンチ立ち(半騎馬立ちのような腰を落とさない立ち方)で行う。首里手では、この型の目的は、スピードとパワーを養うためと解説されるが、松濤館流の鉄騎では、腰を落として足腰を鍛えるためといった別の目的も解説される。

明らかに沖縄のオリジナルと、本土でワンクッション置いたそれとは、内容が異なってしまっている。

『沖縄空手の真実』(2009年)を読むと、沖縄空手家の古老たちが冒頭に「達人座談会」なるものを行っている。それによると、首里手を40年修行して日本に沖縄空手を最初に伝えた船越義珍の技量が達人レベルからするといまだ十分なものでなかったようで、「船越先生があと10年修行して渡っていたら、本土の空手は大きく違ったものになったと思います」などの言葉が紹介されている。

それらを総合すると、首里手の代表的な型であるナイファンチは、極真流派においては、沖縄首里手 ⇒ 松濤館流(本土) ⇒ 極真の一部 という流れで伝わったものと推測され、その過程で、内容が微妙に変化していったことがうかがえる。

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