命懸けの渡米と物見遊山の渡米

 池田名誉会長が1960年5月に創価学会会長に就任し、最初に海外訪問したのは同年10月。最初の寄港地・米国ホノルルで「地区」を結成、17日間の日程をかけ、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、トロント(カナダ)、ニューヨーク、ワシントンを回りながら相次いで組織を構築していった。そのまま次にめざしたのが、南米ブラジルである。このとき北米指導の強行軍で池田会長は体調を崩し、随行の側近幹部から次の南米指導行きの旅程の中止を強く勧められた。このとき、「行く。絶対に行く。たとえブラジルで倒れてもいいではないか」と言い残し、毅然とサンパウロ行きの飛行機に乗り込んだのは有名な逸話だ。池田会長にとってはまさに命懸けの渡米行であった。
 一方、それから2年半ほどすぎた1963年3月。池田会長らが命懸けで組織結成したシアトルに、日本から一人の僧侶が、米国の第1回海外出張御受戒に向けて派遣された。日蓮正宗教学部長の任にあった阿部日顕(のちの第67代法主)である。阿部はこのとき、昼間の宗教儀式をとどこおりなく終えたあと、ホテルで一人になった際に単独で外出し、スキャンダルな事件を起こした。このときの出来事は、海外広布の途上における“秘め事”として、長く封印されてきた。
 その阿部は法主就任後の1991年11月、創価学会に解散勧告書を送りつけ、さらに破門通告書を送りつけた。背後には、稀代のペテン師といわれた元弁護士・山崎正友らの策謀があったとされる。そうした経過をへて明らかにされることになったのが、阿部の最初の海外出張御受戒における物見遊山の行動だ。観光名所を訪れたのならまだ話はわかるものの、英語も話せない坊主頭の日本人がなんたる行動か。これが創価学会と日蓮正宗の世界広布に対する思いの違いであり、その象徴ともいえる出来事である。
 阿部日顕は日蓮正宗の歴代法主の中で、最も罪深い行動をとった人物として、その名を永久に残すことになるはずだ。

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