保身の人びと

昭和の戦争の犠牲者が310万人である事実はしばしば指摘される。思想的には「国家神道」を強要され、死ねば靖国神社で会えるなどといった空想話で国民を動かした時代である。戦後一定期間は、国民に戦争の直接的記憶が残っていたので、反動政治は多数派には至らなかった。だがすでに「戦中世代」が死に絶える時期となり、戦争を直接知らない世代が台頭すると、過去の記憶も、反省も薄れてきた。いま政治家や極右活動家が靖国神社に参拝するのは、信仰の自由とはいえ、そこに過去の戦争に対する反省は見られない。事実、旧日本軍が犯した罪責について「なかったもの」、せいぜいいって「過小評価する姿勢」が鮮明だ。そのリトマス試験紙となるのが、旧日本軍の南京虐殺&集団レイプ行動であり、日本軍関与の慰安婦に対する論評のあり方だ。彼らは神道という思想が、この国を半ば「滅ぼした」事実に対する真摯な反省がない。このように過去の事実をなかったものとして扱う行動は、人間の保身のたまものといえる。同じことは左側にもいえる。

日本共産党が党として過去に党多数派で決定した「暴力革命綱領」のもと、「暴力革命」行動をとったのは過去の歴然たる事実だ。同党においては少数は多数に従わなければならないという鉄の組織原則が存在するため、多数派で決めた当時の決定は、当時の日本共産党の「正式な決定」にほかならない。だがいまの同党最高幹部はどのような言い逃れをしているか。「過去に暴力革命の方針をとったことは一度もありません」などと強弁している。この態度は委員長志位和夫、書記局長小池晃ともに変わりがない。彼らは同党の長年の組織原則に反する行動、発言を自ら繰り返していることになる。なぜ党員たちはこれらの違反行動に怒らないのだろうか。同党最高幹部の行動も人間の保身のたまものといえる。

いずれも自分の都合のいいように過去の歴史を解釈する「反知性主義」の顕著な行動であり、靖国派と日本共産党は、その行動様式はウリ二つといってよい。

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