先行訴訟の重み

妙観講幹部が調査会社に依頼した盗聴事件が実行に移されたのは1991年。事件が初めて世の明るみとなったのは4年後の95年末のことである。この問題で最初に裁判が提起されたのは97年6月で、訴えたのは梅澤十四夫という人物だった。だが運のないことにこの人物は訴えてわずか一カ月後に急逝。訴訟そのものは息子が引き継ぐ形で続けられた。被害者本人がいない状態で裁判を続けたのだから、真相解明という意味では大きな障害となったことは明白である。結論として、この裁判では大草の盗聴関与の事実は認められず、2000年に最高裁で確定した。
もう一件、盗聴被害者が訴えた裁判として知られるのは、91年当時、創価学会の学生部幹部だった波田地克利の起こした裁判である。提訴は99年に行われ、04年に最高裁で確定したが、梅澤訴訟と同様、ここでも大草関与の事実は認められなかった。
この2つの裁判が先に最高裁で確定したことは、この問題の司法的限界を構成してきた。「先例」を重視する世界において、その後の関連訴訟に大きな制約を与えてきたからだ。
当時の妙観講本部職員(最高幹部)が調査会社に直接依頼し、実行させた盗聴事件であったにもかかわらず、先行訴訟において、その責任は妙観講トップには課せられなかった。つまり、本部職員が「独断で行った」とみなされたに等しい司法判断だったわけだが、そうした判断が大きな“矛盾”を残したままであることは、今においてもまったく変わるところはない。

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