明治150年のカラクリ

本日、「建国記念の日」を取り上げた産経新聞の社説に、「明治元(1868)年から数えると、今年はちょうど『明治150年』にあたる」とあるのを目にして、はたと考えた。明治維新から150年は来年2018年のことと思い込んでいたからである。答えは、どちらも正解。明治維新から数えて来年が150周年、また明治がこれまで続いてきたと仮定すれば今年は「明治150年」という計算になる。数え方の違いにすぎない。

昨日付の毎日新聞(夕刊)は、特集ワイド(2面)で、「政府は来年『150年記念事業』を大々的に計画――『明治礼賛』でいいのか」との特集記事を掲載した。西洋列強の仲間入りを果たし、日清・日露という2度の戦争に勝利した明治時代が、日本会議を母体としたいまの右派勢力には限りない“栄光の時代”に映るらしい。ところがそれは短絡的なものの見方でしかなく、その帰結が太平洋戦争での敗戦にあったことはいうまでもない。

上記の記事で歴史家の半藤一利氏が、明治維新を迎える幕末と第二次大戦に向かう時期には共通点があると指摘し、それは「外圧」と「ナショナリズムの高揚」に象徴されるとしている。まさに現代こそ、中国・北朝鮮による「外圧」とともに、日本国内では排外主義が荒れ暮れ、偏狭ナショナリズムが拡大されているのとまったく符号するわけだ。その結果、半藤氏の言葉によると、いまは「戦争の芽が育っている」時代ということになる。

ただ当時とまったく違う面もある。「国家神道」という名の“普遍性のない部族宗教”が日本人の価値観として強制された当時と異なり、いまでは思想はまがりなりにも自由が保障されている。部族宗教とは正反対の世界市民思想を基盤とする日本発の「世界宗教」が、いまや日本はもとより、世界中に根を張り始めている。社会におけるこの思想的基盤の違いはかなり大きい。

国民の一部に“幻想の明治時代”をふり返りたいと熱望する人びとがいることは否定しないものの、そのような風潮が広まったところで、日本がよくなるわけでは決してない。むしろ孤立化の道を進むだけだろう。その意味では、人間の中身は、150年前とほとんど変わっていないのだなと感じている。

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