日本共産党と創価学会 昭和27年の明暗

1952年はまだ戦後まもない時期である。この年の最大のトピックは、日本がGHQのくびきから離れ、国として正式に独立したことだろう。それから66年が経過するいま、当時の2つの団体の動向を把握することは、現在の政治状況を考える上でも不可欠の事柄に思える。

創価学会にとってこの年は重要な意義をもつ年である。前年の5月、戸田城聖が教団の第2代会長に就任し、75万世帯の教団に拡大することを宣言した。当時まだ数千世帯の時代である。宗教界では立正佼成会や天理教に先行され、創価学会は「後発」の団体にすぎなかった。とはいえ、新会長が宣言したものの教団における布教は思うように進まない。これでは戸田会長の存命時代に75万世帯にとうてい及ばないとの危機感から、52年2月、「2月闘争」と後年称されることになる活発な布教拡大が、若き日の池田名誉会長を中心に、大田区・川崎市方面で進んだ。

現実に、この月の前進をきっかけに、教団における布教活動は活発化し、戸田会長の逝去前に75万世帯の布教を見事達成。その後、教団の世界宗教化につづく流れが形づくられたのである。その意味では、「平和の教典」である法華経が世界宗教となっていく上での、重要な分岐点がこの年にあったともいえる。

一方、当時の日本共産党は何をやっていたか。同じ大田区内で、警察署を襲撃し、その2ヵ月前には練馬区の一人の警察官を角材のめった打ちなどで集団でよってたかって殺害。1月には札幌でも地元警察幹部を背後から銃殺するなど、世間からけっして褒められない「テロ行為」にまい進していた。それらは現在の中東におけるテロリストなどと比較しても何ら変わりのない行為だった。

現時点において、教団を母体として結成された公明党と、さらに共産党は、ともに「平和の党」を名乗っている。だが、66年前の現状は、まるで対照的であった。

1952年――、教団は平和の宗教として事実上の出発をしたのと対照的に、日本共産党は「暴力」の権化として活動していた。この出発点の違いは、両組織の「本質」を見る上で、極めて重要に思える。こうした事実を知らないあるいは見ようとしない人びとが、目先の姿に騙されてしまうようだ。

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