信仰の黒帯

10年近く前から空手をするようになり、帯について考えることがある。入門時は白帯から始まり、流派によって色は異なるが、各段階を経て色が変わり、最後は黒帯となる。これを信仰に置き換えた場合どうなるだろうか。入会して最初に始めた段階はまだ「白帯」だ。先輩の指導を素直に実践することで、徐々に信仰が深まり、本尊への確信もさらに強くなる。教学試験を受けて、宗教的実践にも挑戦する。最後のヤマは「黒帯」となる。

「黒帯」になれば、もはや簡単にその人の信仰は崩れない。信仰の「姿勢」というものが出来上がっている段階だからだ。それまでの修行の過程で、その「姿勢」をつくることが極めて重要となる。

いちばんまずいのが、我見の信仰だ。要するに、独りよがりの理解、行動であり、周りに迷惑をかけることも多い。これは信仰の分野に限らず、普遍的な原理でもある。

いま問題になっている波田地のような人物は、信仰的にはおよそ「黒帯」に達していない。

私から見れば、「万年茶帯」といったレベルだろう。

過去には大きな功績もあったが、それにあぐらをかいて、「我見の信仰」にひた走った。凡夫の性である。

そうして、もはや引き返せないくらいに、とち狂った信仰姿勢に凝り固まってしまった。

要するに、ここでも大事なのは「姿勢」である。

空手ではその「姿勢」をつくるために、古流の型を繰り返す。

われわれの信仰でいえば、それは具体的には、日々の勤行・唱題の実践であり、これがない人間、弱い人間、嫌いな人間には「正しい姿勢」が身に付かない。波田地はその典型と思えてならない。

 

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