1991年末のソ連崩壊は日本共産党に大きな衝撃をもたらした。だがそのころの同党には網走刑務所で臭い飯を食った革命家・宮本顕治が同党の最高権力を握っていて、「諸手をあげて歓迎する」旨を主張し、後から振り返ると最小限のダメージで切り抜けている。これがきっかけで同党が社会主義や共産主義の理想を語ることを避けるソフト路線なるものが発生したと見る。それは不破時代の象徴にも見えたが、実際に路線を方向づけたのは元気だったころの宮本だろう。すでにそのころ志位和夫は書記局長として引き立てられ、最高指導部の一員であったはずだが、現在の同党は社会主義の理想(空想)を語る本を議長自ら発刊して、党幹部に本の宣伝をさせるなど逆の行動をとっている。わざわざイメージダウンにつながるとこれまで避けてきた共産主義理想の宣伝を、将来の魅力ある社会と位置づけて語る愚かさ。現在の最高指導者である志位和夫議長はいまも「外遊」という名の実質的な現実逃避で、いまも日本にいない。同党は93年6月、過去の綱領であった「51年綱領」を「51年文書」と名称変更した。歴史修正主義の総本山である「日本会議」も驚くレベルの歴史改ざんにほかならない。この措置も、冒頭のソフト路線の具体的な行動として位置づけられよう。個人的には余暇が増えることがそのまま個人の幸福につながるという考え方はいかにも浅はかに映る。かつての野麦峠で働かされた長時間労働の女工らが中心の世の中ならまだしも、現在では多様な働き方が定着している。仕事のやりがいは、時間というよりもむしろ、社会貢献度やその手ごたえ、さらに中身そのものだろう。どこまでもピンボケな方針の打ち出し方は、政治弾圧で牢獄に入った経験も持たない“なんちゃって革命家”、“サラリーマン党首”らしい振る舞いに見える。