退転者・脱会者の心理

創価学会という教団の生え抜きの最初の顧問弁護士として取り立てられ、その後無残に転落の軌跡を描いた山﨑正友。すでに物故した人物ではあるが、その人生の最晩年を裁判を通して見続けた取材者としての結論は、同人の後半生はあくまで「自己正当化」の行動にすぎなかったという一点だ。若い頃、病気を患い日蓮仏法の信仰を勧められた山﨑は、いったんは信仰の力で病を克服する。まじめに司法試験にも取り組み、教団の第1号の生え抜き弁護士として期待された。だがその期待は長続きしなかった。原因は何かといえば、ひとえに本人の信仰心のあり方(姿勢)にある。よく指摘されてきたことではあるが、退転者に共通するのは地道な信仰努力を嫌がることらしい。勤行をしない。唱題の努力をしない。地道な活動を行わない。それでいて世間一般のことには敏感で、信仰よりも世間法の尺度で物事を判断しようとする。そうした人間が何かの拍子に問題を起こすと、転落の軌跡が開始される。教団の体質やトップリーダーへの批判を始め、自己を正当化する「穴」にはまり込む。山﨑は当初、週刊誌に登場したとき、自らを「正義の士」として描いたが、それは本当の自分の姿を晒すと世間は容易に信頼を寄せないからであり、本人にとっては責任転嫁することと自己正当化は一体となる行動だった。結論からいうと、教団を外から変革することは難しい。組織というものは人間の集まりである以上、さまざまな矛盾をたえずあわせもつ存在だが、その中にあって変革する主体はあくまで「中にいる人間」である。その努力を放棄して、われ賢しとばかりに時流に応じて自己保身を図る行動は、所詮は「坊や」たちの行動であり、見ている者に哀れさを感じさせる。

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