日本共産党は核兵器反対の立場だったといえるか 3

ソ連の“言いなり”となって動く

1961年8月、東京で開催された「原水爆禁止大会」を当時の共産党機関紙『アカハタ』は連日大々的に取り上げた。8月4日付で「第7回原水爆禁止世界大会近づく」の見出しで1ページを丸々使って告知記事を掲載したほか、10日付の1面トップで「第7回原水爆禁止世界大会予備会議開く」「団結と躍進の大会 完全軍縮促進の旗高く」の記事を掲載、13日、14日、16日付でもいずれも1面トップで取り上げ続けた。

その上で17日付では「原水爆世界大会の成功と今後の課題」と題する社説を1面に掲載、2面には「原水禁世界大会の諸決議」を掲載した。共産党機関紙がこれだけ大々的に取り上げた背景には、原水協が同党の傘下組織としてみなされ、同党の重要な基幹活動の一つとして捉えられていた面がある。

上記の諸決議の中に、核実験の再開が今後行われた場合、その国は「戦争への道を選ぶ平和の敵として糾弾されなければならない」との条項も盛り込まれていた。日本共産党からすれば、「平和の敵」として想定されていたのは憎きアメリカのはずだったが、実際は核実験の再開を言い出したのは、アメリカではなかった。

8月30日、ソ連が核実験を行うことを発表すると、日本の新聞では31日付夕刊で1面トップ級で報じられ、世界中が大騒ぎとなった。そもそも日本は広島、長崎と2度の原爆被害にあった当事国であり、1954年にはビキニ事件で3度目の被爆を受けたと捉えていた。そうして翌55年に、第1回原水爆禁止世界大会が広島で行われるという流れがつくられ、原水爆に対しては世論の関心も高かった。

だが、こうした一方的なソ連の動きに対し、日本共産党はそのソ連を「平和の敵」として糾弾することはしなかった。そればかりか、変わり身の早い変節で、一般世間を驚かすことになったのである。

9月1日付のアカハタでは、早くも1面トップで、「ソ連政府 核実験の再開を決定」「第三次世界大戦の破局を防止」の大見出しのもと、同党はソ連の核実験を容認する姿勢を鮮明にした。同日付に掲載された「ソ連の核実験再開声明と日本人民」と題する社説では、「世界でただ一つの原爆被害国である日本の人民は、今回のソ連の核実験再開をどのように受けとめるかという重大な問題に直面している」と述べつつ、「ソ連政府がソ連をはじめとする社会主義諸国への侵略をたくらんでいる帝国主義の核戦争準備にたいして手をこまねいておれないのは当選」「ソ連の今回の態度は戦争をにくむすべての人びとによってうけいれられるもの」と容認を表明した。

さらに9月2日付紙面においては、「ソ連声明 戦争勢力に重大打撃」と1面トップで大々的は宣伝を繰り返し、同日付の社説においては、「ブルジョア言論機関は、ソ連の今回の措置を非人道的なものであるかのように非難しているが、これこそ真に平和を守り、核戦争への道を閉ざすための必要な措置である」とまで言い切り、併せてソ連政府の声明全文を大きく掲載した。ソ連の言い分をそのまま垂れ流し、私も同じ立場ですと、社会的に宣言してみせたのである。

まさしく当時の日本共産党が、ソ連の言いなりとなって動いていた何よりの証拠といえよう。

それからしばらくの期間、同党は、ソ連の核実験再開に賛同するキャンペーンを大々的に繰り広げた。またアカハタ紙上には「ソ連訪問」と題する別の連載も始まり、まるでソ連を「理想の国」であるかのように演出することに躍起となった。ちなみに同党は同じころ、北朝鮮についても「地上の楽園」と宣伝していた事実がある。

そしてとうとう9月8日付のアカハタでは、内野竹千代・中央委員会統一戦線部部長が論文を掲載。先の原水禁世界大会で核実験再開の国は「平和の敵」とみなすとした決議について、決議のこの部分は「正しくなかったといわなければならない」と述べるに至ったのである。≪変節≫の限りだが、その理由として次のように述べている。

「ソ連の核実験再開表明は、アメリカ帝国主義を先頭する戦争挑発者、戦争ヒステリーどもに冷水をあびせかけ、かれらの頭をひやすとともに、これまでになく国際緊張緩和、全面的かつ完全な軍縮実現への国際世論をたかめている」

まさしく当時の日本共産党は、ソ連が右といえば右、左といえば左にそのまま動く政党にすぎなかった。

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