1955年の意味

共産党と公明党はその出自はもともと庶民階層に位置したため、同じパイを取り合って仲が悪くなったとはよく言われる分析の仕方である。それに加え、政界進出の時期が見事に重なる時期的なタイミングも見逃すことができない。公明党の前身である創価学会文化部が最初に候補者を擁立したのは1955(昭和30)年の統一地方選だった。さらに国政に出るのは翌年の56年の参院選が最初である。一方、日本共産党は戦後に合法化されて最初の国政選挙で衆院5議席を獲得したが、その後火炎瓶闘争などに手を出し、議席を完全に失った。そのうえで再起をかけて平和路線に転換して捲土重来を期した時期が、創価学会の政治進出と時期が完全に重なるのである。日本共産党は54年ごろ、それまで分裂していた党内を水面下で統合し、翌55年の衆院選挙、さらに統一地方選挙で実質上の再スタートをきった。その時期が上記と見事に一致するというわけである。同じ時期に同じ階層を2つの集団が競い合った。そうした経緯は、私にはけっして偶然とは思えない。世に「55年体制」といえば、自民党と社会党の対立が固定化した図式としていわれるが、いまに続くもう一つの55年体制があったことになる。

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