火炎瓶を投げながら「平和」を唱えていたアカハタ

1950年から52年ごろの一般紙や日本共産党機関紙アカハタを読んでいると驚くような感慨をもたらしてくれる。同党が党員に対し火炎瓶などの武器製造を奨励し、警察署(交番なども含む)や税務署などにその火炎瓶を投げつけていた時期はだいたい1952(昭和27)年の前半に集中する。

特に2月を皮切りに、そうした内容の一般紙報道も連日続いている。当時、機関紙アカハタは発禁処分となっており、代わりに地下組織の機関紙として『平和と独立』(略してドッペイと言ったらしい)が発刊されていた。アカハタが復刊されるのは、日本が独立した直後の同年5月1日号からである。

当時のアカハタでは、「平和」「平和」とそればかりを強調する記事が目立つ。戦後まもない時期だけに、一般大衆は戦争を忌避する感情が根強く、そうした国民心理にかこつけて「平和」を強調していたものと思われるが、街中では火炎瓶を投げつけ、計画的に警察官を殺害する一方で、機関紙上では「平和」を唱えていた政党とはいったい何なのか。極めてグロテスクというしかない。

ちなみに共産党が火炎瓶を全国で投下しているころ、創価学会では有名な「2月闘争」が行われ、蒲田支部を中心に大きく布教が進んだ。一方、共産党はその同じ月に「蒲田事件」なる警察史に残る犯罪を惹起し、警察官多数を襲撃。新聞の大きな見出し記事の対象となった。

 

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