櫻井よしこへの“温情判決”の中身

産経新聞の中で安倍晋三ベッタリ記者として有名だった阿比留瑠比論説委員が今日付の紙面で、櫻井よしこの裁判のことを取り上げていた。2015年に植村隆元朝日新聞記者がたびたび捏造記事を書いたと指摘されて櫻井を名誉棄損提訴していた事件だが、2018年11月の一審判決、ことし2月の高裁判決といずれも請求棄却された。最高裁ではこの11月18日に上告棄却され、確定したものだ。だがこの裁判、調べれば調べるほど、一審被告・櫻井に対する“温情判決”であった事実が浮き彫りになる。

櫻井よしこは月刊誌WiLL、週刊ダイヤモンド、週刊新潮、自身のブログなどで繰り返し、植村元記者の記事を捏造と非難、さらに人格攻撃まで加えていたが、判決は真実相当性を使って櫻井を免責する結果となった。これは週刊誌記者などにとっては常識的な事柄だが、書いてしまった記事に事実的な誤りがあった場合(=真実性がない場合)、そう信じてしまったのがやむおえない事情があった場合に免責されることがままある(真実相当性)。ただしそのためには報道被害者に対する必要な取材が行われている場合であり、そのため、週刊誌は疑惑の本人である政治家などにいちおう「アテ取材」を行うのが慣例となっている。つまり、いざ裁判になったときに、少しでも不利にならないようにするための便宜的な取材だ。ところがこの裁判の場合、櫻井は相当性で免責されながら、植村元記者に直接取材していないのはおろか、取材の申し込みすらしていない。それで相当性が認められたのは、名誉棄損裁判では「異例中の異例」のことである。

さらにこの判決では、植村元記者に対して櫻井が書いた「義母の訴訟を支援する目的」で捏造記事を書いたとする記述について、相当性を判断していない。つまり、裁判所は、ここに触れると名誉棄損を認定せざるをえなくなるので、あえてスルーしていると見られても仕方がない箇所があるのだ。つまり、とことん櫻井を救うためだけの判決となっているといってもよい。

加えてこの判決の論理構成は、通常の名誉棄損裁判なら、公共性、公益性のほか、まずは真実性の可否を判断し、その後に相当性の可否を判断するところ、この判決では、真実性の判断が最初からなされていない。そのため、「真実性がない」とする櫻井に不利となる具体的記述がどこにも書かれていないのだ。そのため裁判に詳しくない人間が読めば、そもそも櫻井が書いた一連の記事に「真実性がない」と判断されたことがわからないような構成となっている。これらの異例とも思える判決の書き方は、いったいどこから来ているのか。

櫻井よしこは知る人ぞ知る安倍晋三前首相の一心同体ともいえる強力な支援者で、前首相と密接な関係性で知られている。つまるところ、司法界にも、行政と同じく、自身の立身出世を気にしたヒラメ裁判官がいたのかもしれない。内容的には明らかに、異例の判断が繰り返されているからだ。

この櫻井裁判の一審の判決結果を受けて、もう一件の植村元記者が週刊文春や西岡力を訴えた名誉棄損裁判でも、同様の請求棄却の結果となっている(こちらは上告中)。

櫻井は本来なら相当性も認められず、アウトになるべきだった裁判を、結果的に救済された。彼女に日本人としての本当の気概があるのなら、「私は本人取材もしていないのに、相当性を認めるのはおかしい」「私だけこんな不公正な形で救われる判決は容認できない」と、逆に裁判所に対して怒るべきところだ。もちろん自分の利益しか考えていない人間は、そんなことはしないはずだが…。

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