池田会長辞任から41年

1979(昭和54)年4月24日、第3代の池田会長が辞任した日である。これまで会内では「勇退」なるワードが多用された時代もあったが、現実とはかなり異なる。以下はまったくの私見だ。

 1960年5月3日、32歳の若さで戸田城聖会長の後を継いだ池田会長は会長職を19年間つとめた。当時、第1次宗門問題が吹き荒れ、一面で責任問題化していた。裏で画策した中心人物は元顧問弁護士の山崎正友で、日蓮正宗(宗門)と仕事上つくった人間関係を悪用し、2つの教団間でマッチポンプをくり返した。会長激務を20年近く。ただただ世界的布教のため、会員のために使われてきた行動の日々に、分岐点が訪れる。結論として、会を守るため、自らいったん退く形をとった。「私」でなく、「公」を優先した姿だった。 原理として、魔性というものは、組織上の最も「弱い」部分にあらわれる。仮に側近幹部が団結して3代会長を捨て身で守っていれば、辞任は回避されたかもしれない。ただしそれは言っても仕方のない結果論だ。

  1988年、「青年世紀元年」と銘打って、池田名誉会長は次を担う青年層を対象に、後継世代の育成を本格的に開始した。現実としていまの教団を下支えしているのは明らかにこのころ青年部だった世代だ。当時の池田名誉会長が青年に向けた言葉で個人的に印象に残るのは、「本物の一人になれ」「本物の一人がいればよい」、さらに「若いうちはだれよりも苦労せよ」といったシンプルなメッセージだった。 いま振り返って、この言葉にこめられた思いが、歴史的にようやく理解できるような気がする。布教上の原理として、魔性というものは必ず潜みこんで現れる。しかもそれは本質的には内部にだ。ただし本物の一人さえいれば、会は最終的には守られる。 「本物の一人になれ」「だれよりも苦労せよ」。4月24日は教団にとって重要な反面教師の日である。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。