左翼側のイデオロギー・ノンフィクション

予断に満ちたイデオロギー・ノンフィクションは、実は右派の専売特許とも限らない。左派にも似たような作品が存在するからだ。その象徴的な事例の一つが、松本清張が書いたノンフィクションだ。えっ?松本って小説家じゃないの?という人がいるのは当然だが、本人は50歳ごろ脂の乗り切った時期に、「日本の黒い霧」という年間連載を月刊文藝春秋で行った。同名の書籍は今もロングセラーとなっている。日本共産党の「隠れ党員」とも揶揄されたことのある松本は、ここで戦後の多くの未解決事件を取り上げた。その中には松川事件のように逆転無罪判決が出て、日本共産党の潔白につながった事件もあったが、松本の「共産主義は素晴らしい」という予断のもとに執筆されたノンフィクションは、すでに後世には通用しない事実が多く含まれている。

一つは日本共産党による犯罪であることが後年明らかになった「白鳥事件」を、まるで冤罪事件であるかのように描いていた点だ。さらに朝鮮戦争については、韓国側から仕掛けたように松本は書いたものの、実際は北朝鮮から攻撃したことが後年はっきりしている。3番目に、伊藤律についても、当時の日本共産党の主張そのままにスパイ説を喧伝したが、歴史の事実とは異なることが明らかとなり、現在の版では訂正文が掲載されるほどの失態を演じている。いずれも一定のイデオロギーをもとにした予断が、ノンフィクション作品の内容をねじ曲げ、後世になって馬脚を現した典型的な事例といえるものだ。

同じことは今後、門田隆将のノンフィクションでも繰り返されると予測される。福島原発事故の暴走を止めたのはフクシマ50であるかのように喧伝された同人の作品も、事故の解明が進むにつれ、実際はそうではなかったという事実がすでに明らかになりつつあるからだ。ノンフィクション作品は事実かどうかが肝要だ。執筆者の意図のもとに結論が捻じ曲げられると、その作品の価値は大きく失われることになる。イデオロギー・ノンフィクションは、たとえ一時期売れたとしても、歴史の淘汰の波を超えることはできない代物なのである。

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