庇を貸して母屋を取られる

 「日本の夜明けは京都から――」。これは最近まで日本共産党関係者の京都方面における合言葉のようなものだった。なぜこのような言葉が残るかといえば、京都は同党にとって最も先進的な党勢拡大の模範地域だったことによる。反面、京都府政の歴史は、日本共産党が政権をとった場合にどのような結果になるかを示唆する絶好の事例ともいえる。1950年、日本社会党と共産党が推した蜷川虎三が京都府知事選で初勝利し、知事となった。当初は社会党が主体的に擁立した候補だったが、途中から蜷川は共産党に肩入れするようになり、同党もその政治的立ち位置を党勢拡大のために存分に活用した。蜷川府政は7期28年にわたり、その間、京都は日本共産党の金城湯池の地域となった。この現象は、「庇を貸して母屋を取られる」との言葉でしばしば形容される。当初は「母屋」であったはずの日本社会党が共産党に「庇」を貸したところ、「母屋」を乗っ取られたというわけだ。この図式は、こんごの野党連合においても繰り返されることになるはずだ。民主集中制という名の独裁制を敷く日本共産党は、統率のとれた組織だった動きが顕著で、京都の社会党は白アリに侵食されるように形勢逆転された。こんごは、立憲民主や国民民主は、かつての京都社会党の二の舞になる可能性が高い。

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