「フクシマ50は特攻隊映画と変わらない」

昨日付の東京新聞のコラム(大波小波)に「原発事故を巡る対策映画」と題して、新作映画「フクシマ50」の論評がなされていた。記事内の記述をそのまま引用してみよう。「巨額の製作費をかけた大作であることは事実だ。だがその内容は『所長』を『上官殿』と言い換えれば、かつての特効隊映画と変わりがない。(中略)献身的な部下と友好的なアメリカ軍将校は登場しても、逃げ惑う住民は名もなき背景でしかない」――。観賞済みの小生もまったく同感である。いまも4万人以上が故郷を追われている最大の被害者であるはずの福島県民の一部を故意に英雄化し、“お涙頂戴”の安っぽい(?)ヒーロー映画に仕立て上げたこの映画。そこには最大の被害者であるはずの住民に寄り添う姿勢は感じ取れない。事故の教訓を深く考えさせるためのしかけもない。あるのは東京人の高みに立ち、あなたたちのお陰で東日本は救われたとする一方的視点からの国威宣揚だ。さらに売らんかなの意思だけが突出している。繰り返すが、原作者の意図(あるいは境涯)に大きく縛られた作品であることははっきりしている。

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