修羅界が異常に強い人間の末路

学生部時代の集団での後輩いじめなどが問題となって教団除名に至った足軽一派(小平秀一・滝川清志・野口裕介・福岡大佑ら)の特徴に、「対話」というキーワードがある。ただし彼らにとっての「対話」とは名ばかりのもので、実態は自らの正当性をどこまでも主張し、相手に非を認めさせることが目的であり、謙虚な姿勢で対等な立場で一致点を見出そうというようなものではまったくない。平たくいえば負けず嫌いな性格なのであり、もっといえば、性格の根底次元において、謙虚さが足りないからそうなるともいえよう。修羅界が異常に強い人間は、こうなりがちだという一つのパターンを示しているように思えてならない。

話は変わるが、こうした手合いは別に教団内部に限った話ではない。どこにでもこのような人間は存在する。自分の都合のいい主張で凝り固まり、ひたすら自らの正当性のみを主張し、「対話」の場を、自己正当化のためのプロパガンダの場としか考えていないような手合いである。こうした人間たちと付き合うのは疲れる話であり、なんら建設的な結果は生まれないものだ。

根底にあるのは、ただただ相手を打ち負かそうとする自己本位な姿勢であり、大きな視点では何も考えていない。自らの行動を客観視することができず、その結果、物事を正当に判断することはできなくなる。

上記の一派が道を誤った本質も、そういうところに横たわっているように思えてならない。彼らはそのことに気づかない限り、死ぬまで同じ行動(=あくなき自己正当化のための行動)を繰り返すと私は考えている。

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