萩原遼氏との思い出

生前の萩原遼氏(ペンネーム)と最初にお会いしたのは、私が政党機関紙から独立して1年目の1997年の夏の終わりごろだったと記憶している。当時、日本共産党に関するムック本の企画で、赤旗記者の取材を担当することになった。現役記者が応じてくれる可能性は低いと思われたので、赤旗OBに何件か取材依頼し、2人くらいに断られたあとで、なんとか粘って取材に応じてくれたのが萩原氏だったと記憶している。

取材の場所は大阪だった。大阪府警にほどちかい本屋の前で待ちあわせた。その後、地下の喫茶店で話を聞いた。取材依頼の際も二転三転してやっと応じてくれたという経緯だったが、取材では、赤旗記者の動静を語ってくれた。まじめに1日何件も対面取材をしていると、コーヒー代だけでも馬鹿にならず、胃が痛くなるといった話をしてくれたのを覚えている。まじめな人だった。

萩原氏は赤旗記者を辞めた退職金で、アメリカの図書館にこもり、朝鮮戦争で押収された膨大な記録を閲覧し続け、朝鮮戦争を最初に仕掛けたのは東側であったことを突きとめ、『朝鮮戦争』という労作にまとめた。そうした行動も党の逆鱗にふれたのか、その後、除籍処分となったようである。晩年は北朝鮮問題に関わり、帰国者の救援問題などに尽力していた。

私がこれまで取材で出会った日本共産党の人びとは、まじめな印象を受けた人が多い。

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