日本共産党が「復活」をめざした時期

 日本共産党は非合法政党として戦前にスタートし、戦後ようやく合法的に活動する権利を得た。戦後間もない一時期には衆議院で35議席を獲得したこともあったが、相次ぐ「破壊活動」などで有権者の信頼をまったく失い、1952(昭和27)にはゼロ議席へ。さらに翌年の総選挙、参院選挙でもほぼ壊滅状態となった。この状態は3年後の55(昭和30)年に至っても何ら変わっていなかった。そこで同党が目をつけたのが、この年に行われる地方選挙だった。特に市区町村議選に目をつけ、まずは地域の地盤固めからやり直そうと力を入れた結果、予想外に当選者を増やし、一定の基盤づくりに成功する。当時のある地方紙には、「日共の地方議会進出 末端にいくほど伸長 市町村議は4割当選」といった記事も目につく。 一方、公明党が初めて政界に人材を立候補させたのは同じ55年の統一地方選だった。もっとも当時はまだ公明党という政党は存在せず、創価学会員が無所属で立候補するというスタイルだった。翌年の参院選では、初めて国政選挙にも挑戦した。

 何を言いたいかといえば、公明党の前身である創価学会員候補の初の選挙と、日本共産党が復活をかけた巻き返しの時期は、完全に一致するという歴史的な事実である。これはいうまでもなく、偶然の結果にすぎないだろう。この後両党は「ライバル」として競い合う関係となった時期もあったが、すでに共産主義の実験が世界中で失敗に終わり、日本共産党の本質的な存在意義はないものとなって久しい。両党の背景に、偶然すぎるほどのスタート地点の一致があったことは、今もって不思議な史実である。

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