単行本『北朝鮮から逃げ抜いた私』(金龍華著)の「解説」

 この壮絶な北朝鮮脱出の記録は、ここで終わったわけではない。

 

 1995年、韓国に無事入国した金龍華(キム・ヨンファ)は、その後国家安全企画部(現・国家情報院)による厳しい取調べと拷問を受け、結局「脱北者」として認められることはなかった。中国で偽造した住民登録証の存在から、あくまで中国人として処理されようとしたのである

 

 彼は98年4月、再び小型動力船を購入し、さらなる転地・日本に向かって船を進めた。その後3年近くを日本ですごすことになるが、うち2年間は“大村収容所”(現・大村入国管理センター)などでの不法入国容疑の拘禁生活であった。

 

 私が金龍華と初めて面会したのは、98年秋のことである。すでに福岡や長崎の市民グループらによって支援の動きが始まっており、「キムヨンファさんを支える会・福岡」(真砂友子代表)がつくられていた。私は同会の青柳行信事務局長らとともに、大村センターを訪れた。このころにはもう、激励のために面会を求める支援者らの訪問も増えていた。


 金龍華は日本政府に政治難民の申請を行い、難民として認められることを希望していたが、政府のかたくなな対応により不認定とされ、それを不服とする裁判を福岡地裁で起こしていた。弁護人となってくれたのは、福岡弁護士会の矢野正剛、稲村鈴代、松井仁の各弁護士である。


 彼は2000年3月に大村センターを「仮放免」され、支援者が提供してくれた福岡市内の仮住まいなどで1年近くを過ごした。


 北朝鮮での軍隊時代の習慣からか、毎朝4時には起床し、自転車で大韓キリスト教会に通った。ここは有力な支援者である崔正剛(チェ・ジョンガン)牧師が責任をもつ教会で、金龍華はそこで十数年におよぶ「逃亡」の記録を、パソコン画面を相手に入力する日々をすごした。そうしてできたのが本書である。

 

 その後、事なかれ主義を予感させていた裁判は、おもわしい展開を見せず、金龍華の訴えは棄却される可能性が強まった。一時的に執行停止されていたとはいえ、一度は強制送還の令状が発布された身である。裁判でも、日本政府側はあくまで彼が中国人であるとの立場を譲らなかった。訴えが棄却されると、いずれ中国に強制送還されることが予想されたので、支援者らはその事態を最も恐れた。


 ご存知のとおり、中国と北朝鮮との間には脱北者の取扱いに関する協定がかわされており、中国に送還されれば、そのまま北朝鮮に戻され、処刑される可能性が強かった。

 

 支援者らは水面下で韓国政府とコンタクトをとり、再度韓国で受け入れてもらえないかとの交渉を始めた。結果が出たのは2001年1月末。金大中政権は、受け入れてもいいと回答してきた。ただし、日本での裁判を取り下げるなどの条件が付せられた。

 

 約1週間後、金龍華は支援者らに見送られ、機上の人となった。一度は逃げ出したソウルの地へ、再び降り立ったわけである。2002年5月、正式な脱北者として認められ、韓国国籍を得て、いま彼はソウルで暮らしている。

 

 1998年に北朝鮮を脱出して以来、14年もかけて、やっと安定した地位を得ることができたのだった。その意味でも、彼の脱北後の半生を目にすると、劇画の場面を見ているかのような錯覚に陥る。まるで映画の台本用のストーリーのようでもある。

 

 ここで書かれているのは、金龍華が実際に体験した、脱北者としての日々の生活である。本人が膨大な手記を書くにいたったきっかけは、いまも中朝国境地帯をはじめ、中国国内で潜伏生活を送っている北朝鮮出身者の、不自由で、非人間的な生活を、日本の読者に理解してもらいたいとの強い思いからだ。

 

 脱北者として、うまく逃げ出せずにいまも中国で暮らす人たち。そのなかには「地上の楽園」という宣伝にだまされ、北朝鮮帰国事業で当地にわたった帰国者らもまじっている。そうして北朝鮮国内には、いまも、飢えと圧政に苦しむ多くの人たちが声に出せないSOSを発し続けているのだ。

 

 私が本書の出版を金龍華から依頼されたのは、彼が韓国に戻って半年後の2001年夏のことである。日本で書き始めた逃亡手記は、その後韓国で完成した。ひさしぶりに旧交をあたためるために訪韓した折、日本で出版してほしいと、A4判サイズで230枚以上にびっしりとハングルで書き込まれた手記を手渡されたのである。原文のタイトルは、「私に祖国はない~放浪者の手記~」というものだった。

 

 私は日本に戻り、朝鮮半島問題に造詣の深い旧知のジャーナリストにお願いし、原文を一読してもらった。出版の可能性を打診してみたところ、波乱万丈の人生劇が出ていてじゅうぶん読み物に値するだろうと言う。そこで朝鮮語の専門家である長谷川由起子さんに依頼し、下訳者の協力を得て全文を翻訳してもらったところ、それだけで優に原稿用紙1200枚分もの分量になった。単行本2、3冊分にあたる。

 
 本書はそれを1冊の分量に編集したものだ。原文では、北朝鮮での生い立ちの記録が最初に詳しく綴られているが、本書では、脱北者の実際の生活ぶりを読者に提供したいとの思いから、中国での生活を主に扱っている。

 

 その後の韓国や日本での生活ぶりと合わせ、本書で割愛した部分は、別書『北朝鮮から逃げ抜いた私』(窓社、2003年)として刊行されている。

 

 本書が脱北者の逃亡記録としていささか異彩を放っている点は、ひとつは、彼が中国だけでなく、ベトナムにも足を延ばしている事実であろう。つまり、アジアの共産国のほとんどに彼は足を踏み入れているわけだ。同じ社会主義国といっても、たとえば、北朝鮮から中国に入った瞬間、同じ社会主義ながらなぜこうも違うのだろうと疑問を抱いているシーンなどは象徴的な場面でもある。

 

 さらに、本書に書かれているような、とても常人には真似できない“逃亡劇”が可能になったのも、彼が若いころから過酷な軍隊生活のなかで肉体を鍛え上げ、サバイバルの術を学んでいたからであろう。実直でまじめな彼の人柄は、本文の随所に垣間見ることができる。

 

 私が大村センターで最初に会ったときは、彼の表情にはまだ警戒の念と緊張感が漂っていた。そのころの私は、ちょうど彼が脱北したときの年齢と重なっていて、とても人ごとの話とは思えない気持ちで取材を始めていた。彼は北朝鮮にいたころ、日本はとんでもない国と洗脳されていたと語ってくれた。だが、実際に日本に来てみて、支援者らとの交流を重ねるなかで、同じ人間としての情愛を感じとったようだった。

 

 2001年、新世紀を迎えた元旦、彼の活動の場所でもあった福岡市の大韓キリスト教会で新年のミサを終えたあと、佐賀県にある私の実家に立ち寄り、日本式の正月を体験してもらった。家族らにお屠蘇や日本酒を勧められ、ちょっと緊張した様子だった。途中、JR博多駅のプラットフォームで彼がぽつりとつぶやいた言葉を印象深く覚えている。

 

 「ダッポク13年‥‥」
 

 それは新しいミレニアムを迎えた彼の、感慨の言葉であったはずである。祖国を離れて13年――。

 

 もともと酒がきらいでない彼とは、日本酒や焼酎を買ってきて飲み交わす機会も多かった。支援者の経営する福岡市内の居酒屋で共に酔い、韓国に行っても盃をかわした。
だが、彼が韓国に戻ったあとも、正式な脱北者として認められるまでには多くの困難を伴った。ハンナラ党の一人の議員の尽力がなければ、いまも彼の国籍はなかったかもしれない。彼は国籍取得後、韓国の国会議員会館で開いた「記念集会」でこう訴えている。

 

 「もし皆さん方が、家で飼っているペットほどに脱北者の問題に関心を寄せてくださるならば、この問題は大きく前進することになるでしょう」

 

 現在、中国に潜伏生活する脱北者は、正確な数は把握できないものの、少なく見積もっても10万人以上というのが関係者に共通する見方である。なかには、北朝鮮人だけでなく、日本人もまじっている。すでに一部の人びとが日本に戻ってきているが、北朝鮮に残してきた親族への報復をおそれるあまり、公(おおやけ)に名乗り出ることさえままならない状況が続いている。

 

 第2、第3の金龍華は、いまも中国国内をさまよい続けている。まさに現在進行中の話なのだ。

 

【2002年12月刊行】