史実が語る南京事件の真相

                                                                                          【『月刊潮』2016年6月号】

学問的に確定した歴史的事実であり、すでに“決着済み”の問題にほかならない。

 

90年代に決着した論争

 

 2015年10月、中国政府がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産に申請していた南京大虐殺の記録登録が認められたことで、約80年前の南京事件が再び脚光を浴びることになった。南京大虐殺、いわゆる南京事件は、1937(昭和12)年に日中戦争を起こした旧日本軍が同年暮れ、中国の首都であった南京を陥落させた際、派生的に起きたとされる数万人以上の大量虐殺事件などを指す。

 

 この問題は歴史学的には1990年代前半までにすでに決着がついたものとされており、現在、日本の歴史学者で南京事件を否定する人は極めて少数に限られる。しかし、日本の一部メディアやインターネット上では、この事件がまるで「存在しなかった」かのように取り扱う風潮が強まっている。いずれも歴史学と関係のない他分野の研究者や、特定の政治意図をもつプロパガンダの類が多く目につくが、学問的に確定した歴史的事実をあたかも「なきものにしよう」とする行動は、国際的にもおよそ通用しない態度だ。

 

 一般の刑事事件(例えば殺人事件など)と同様、こうした事件においても事実認定の方法は同じである。つまり、まずは双方の当事者である①被害者(生き残った者)と②加害者の言い分が重要であり、第三者である③目撃者の証言が事実を補強する。

 

 南京事件の場合、①の被害者の証言は中国現地に無数に存在し(事件から80年近くが経 過し生存者はかなり減っているが)、③の客観的な目撃証言も大量に残されている。例えば事件当時、現地にとどまっていた外国人の記者・教会関係者・大使館関係者などの証言だ。さらに②の加害者側の証言・証拠としては、旧日本軍の各部隊の戦闘詳報(殺害数などを明記した各部隊の公式記録)に記録された捕虜虐殺を示す記述をはじめ、兵士の陣中(戦場)日記に共通して残された、捕虜の大量処刑の記述などから十分に裏付けられる。つまり、事件上の三者の証言は、それらの骨格の部分で明確に一致しているのだ。

 

 南京事件について「あった」「なかった」といった論争は、日本では70年代に始まったとされる。最終決着がつけられる“決め手”となったのは、②の加害者側の証言が相次いだことによる(要するに、一般の殺人事件では、犯罪者の「自白」に相当する)。

 

 きっかけとなったのは、旧陸軍士官学校出身者などでつくる親睦組織「偕行社」の機関誌上で、「証言による『南京戦史』」という連載が84年から翌年にかけて行われ、その成果が『南京戦史資料集』(89年)として刊行されたことだ。そこでは捕虜の集団虐殺を記述した戦闘詳報など、南京虐殺が軍の組織的行為によって行われたことを証明する史料が引用され、南京戦参加の当事者である旧日本軍幹部の口から南京事件が実際に存在した事実が次々と明らかにされた。そのため、連載の最後は「中国国民に深く詫びる」との謝罪の言葉で締め括られている。

 

 加えて、加害者側の物的証拠として、民間人による陣中日記の発掘作業も大きな成果を収めた。福島県いわき市に住む小野賢二さんが88年以降に入手した陣中日記のうち、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち~第13師団山田支隊兵士の陣中日記』(96年)に収録された19人の日記によると、わずか一つの連隊にすぎない歩兵第65連隊だけで、2日間で中国人捕虜2万人近くを無差別に銃殺し、揚子江に流したことが随所に記録されている(南京戦には19の歩兵連隊が参加)。陣中日記は、当時の日本兵がその日の出来事をありのままに綴った極めて信頼性の高い一次資料といえるもので、多くの兵士の日記に共通する記述は、事件の真実性を明白に裏づけるものだ。

 

 また、90年代は司法界でも大きな変化が見られた。南京事件の内容が日本の司法において初めて問われることになった第3次家永教科書裁判(84年提訴)で、93年10月の東京高裁判決は、家永氏記載の「南京大虐殺」および「日本軍の婦女暴行」に関する教科書検定意見について、初めて「違法」と認定し(地裁判決はそうではなかった)、97年に最高裁で確定したからだ。その結果、すべての歴史教科書に南京事件に関する記述がなされるようになり、その状況は今も変わっていない(新しい歴史教科書をつくる会系の「自由社」版教科書を除く)。

 

 そうした学問的成果を背景にした94年5月、羽田内閣の永野茂門法務大臣が「南京事件はでっち上げ」との発言を行ったことにより、同大臣が引責辞任に追い込まれる事態へつながった。

 

揺らぐことのない多数の根拠

 

 このように南京事件をめぐる歴史的考察は、すでに明確に決着を見たものにすぎない。その結果、学問上の争点として残されているのは、あくまで殺害規模に関する数字の問題であり、中間派の主張する4~5万人説から、10数万、さらに中国政府の主張する30万人説まで、その範囲は幅広い。いずれも違法殺害の定義や対象時期、対象地域によってかなり変化する。

 

 終戦時、旧日本軍は戦犯として訴追される事態を恐れ、多くの資料を燃やすなど証拠隠滅に奔走したことはよく知られる。その結果、南京戦に参加した部隊の戦闘詳報(殺害数などを明記した各部隊の公式記録)も3分の1程度しか残されていない。そのため明確な犠牲者数の計算ができない状況にある。また、南京陥落後の37年から日本降伏に至る45年までの期間、中国側が南京虐殺の実態調査を行うことは事実上不可能だったため、現場保存等がなされなかったこともその後の解明を難しくしたとされる。

 

 それでも事件の事実を結論づけるだけの調査資料はすでに多く公刊されてきた。この問題に詳しい都留文科大学の笠原十九司名誉教授は、収録内容にほとんどダブりのない学術的意味をもつ資料集が、これまで9冊も編集・刊行されてきた事実を強調する(表参照)。

 

  ①『日中戦争史資料8 南京事件Ⅰ』(1973年)

  ②『日中戦争史資料9 南京事件Ⅱ』(1973年)

  ③『南京戦史資料集』(1989年)

  ④『南京事件・京都師団関係資料集』(1989年)

  ⑤『南京事件資料集① アメリカ関係資料編』(1992年)

  ⑥『南京事件資料集② 中国関係資料編』(1992年)

  ⑦『南京戦史資料集Ⅱ』(1993年)

  ⑧『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(1996年)

  ⑨『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』(2001年)

 

 これらは日本軍関係資料をはじめ、アメリカ側、中国側、ドイツ側など、広範囲な資料に基づくものだ。

 

 また、第1次安倍政権(2006~07年)が残した遺産として、日中歴史共同研究の成果が挙げられる。これは安倍首相が就任直後に訪中し、胡錦濤国家主席(当時)と日中首脳合意のもとで両国間における初めての歴史共同研究の実施を合意し、両政府がそれぞれ研究委員を選任して共同研究を進めたもので、2010年に報告書が発表された(『「日中歴史共同研究」報告書』に収録)。そこでは南京事件における「日本軍による虐殺行為の犠牲者数」について、「日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」と記述され、日本政府の認識として、もはや事件そのものがあったことは動かしようのない事実となっていることを明白にした。要するに、三権分立を旨とする日本にあって、南京事件の存在は、司法の最高機関がお墨付きを与え、さらに行政のトップ(安倍政権)が主導して中国と行った共同研究において、明確に認められた歴史的事実にほかならない。

 

日本軍加害の直接証拠

 

 南京攻略戦に参加した日本軍兵士は総勢20万人近く。うち、実際に虐殺に関わったのはその一部である。そのため、元日本軍兵士の聞き取りを行っても、「私はそんな場面に出くわしたことも、聞いたこともない」などといった否定論が出てくるのも、ある意味では無理からぬことである。しかし、だからといって事件そのものがなかったことにはならない。一つの連隊で2万人近くを虐殺した歩兵第65連隊の兵士たちの陣中日記には次のような記述が頻出する。

 

 「その夜は敵のほりょ2万人ばかり揚子江岸にて銃殺した」(伊藤喜八陣中日記)

 

 「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す。(中略)2万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった」(宮本省吾陣中日記)

 

 「昨夜までに殺した捕リョは約2万、揚子江岸に2ケ所に山の様に重なって居るそうだ」(大寺隆陣中日記)

 

 「午後にわ(原文ママ)聯隊の捕りょ2万5千近くの殺したものをかたつけた」(高橋光夫陣中日記)

 

 「2日間ニテ山田部隊2万人近ク銃殺ス」(目黒福治陣中日記)

 

 【いずれも『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用】

 

 紙幅の関係でこれくらいにとどめるが、ここに挙げたのはそのごく一部にすぎない。いずれも12月16、17日の2日間に集中する記述内容である。これらは第一級の一次資料であり、これまでのところまとまった反論も存在しない。陣中日記を集めた小野さんは、「(否定派は)都合の悪いことには無視を決め込み、これらの史料には全く向き合おうともしない」と批判する。

 

 事実、一部メディアやインターネット上にはびこる「なかった」説は、南京事件を否定する説であり、いわば「ゼロ」を主張しているに等しい。しかし上記の物証からは、そうした主張がおよそ成り立たないものであることは明らかだろう。

 

 実際、最近の否定説は、南京虐殺を中国国民党政府や米国がでっち上げた陰謀論として否定するものや、捕虜を解放したなどと述べて虐殺を過小評価した真偽不明の文書(歩兵第65連隊長・両角業作手記)などに依拠し、事実の全体像をあえて無視したものがほとんどだ。笠原名誉教授は、「今の否定論は、一つか二つの都合のいい事実を取り出して、それがダメな場合は南京虐殺はなかったと短絡的に結論づけるような論法がほとんどで、やり方としては極めて単純なものですが、事件に詳しくない人は影響を受けてしまう」と心配する。

 

最高裁で4回も“完敗”した否定派

 

 繰り返すように、日本の歴史学者で南京事件を否定する人はほとんど存在しない。歴史学者の9割以上が認めている問題だ。また先ほど挙げた9冊の資料集に比べ、否定派には学術的にまとまった資料集と呼べるものは1冊も存在しない。さらに日本の司法・行政とも認めてきた事実であり、外務省のホームページでも、「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」と記述しているとおりだ。加えて日本の歴史教科書のほとんどに記述され、日本国内で発行される歴史辞典の項目にも押しなべて記載されている。そうした歴史上明白な事件であるにもかかわらず、近年のタガの外れた否定論が横行する状況について小野さんは語る。

 

 「やはり、加害側の日本軍関係者に聞き取りが可能だった段階で、全国的に調査を行うべきでした。俺は歩兵第65聯隊と山砲兵第19聯隊に絞って調査を行いましたが、他の聯隊でも同様の調査がなされれば、否定派が画策する余地はより狭められたはずです。その点は本当に残念です」

 

 司法においては、第3次家永教科書裁判のほか、南京事件をめぐって、これまで3件の訴訟が行われてきた。うち2件は、南京事件の被害者女性を“ニセ被害者”呼ばわりしたことで著者や出版社が名誉棄損で訴えられたもので、李秀英名誉棄損事件は2005年1月、夏淑琴名誉棄損事件は09年2月に最高裁で確定。いずれも真正の被害者であることが認められ、一審被告に損害賠償が命じられている。

 

 もう一件は「百人斬り競争」訴訟と呼ばれるもので、南京事件にからんで百人斬りがあったかのような記述は名誉棄損にあたるとして遺族からジャーナリストなどが訴えられた裁判だったが、「全くの虚偽であると認めることはできない」(東京高裁判決)として06年12月、請求棄却で最高裁で確定している。

 

 いずれも否定派側が“完敗”を喫した裁判であり、否定派側の中心人物であった亜細亜大学教授の東中野修道氏は、夏淑琴名誉棄損事件の地裁判決において、「東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しない」(07年11月)と厳しく断罪された過去を持つ(※その後、高裁判決では削除された)。

 

 結局のところ、南京事件は「事実とは何か」ということに尽きる問題であり、繰り返すようにすでに“決着済み”の問題にほかならないのだ。