日本の歴史問題とどう向き合うべきか。

「南京事件」をめぐる議論の本質とは何か。
大事なのは「事実」をありのままに受け止める姿勢にある。

 

【『月刊潮』2013年2月号】

南京事件から75年

 

 日中戦争における南京占領から75周年を迎えた2012年12月13日、中国・江蘇省南京市の南京大虐殺記念館で追悼式典が開かれ、約9000人が参加した。尖閣問題などの外交摩擦を抱えながらも、大きな混乱は見られなかったが、式典を取材中の共同通信記者が、背後から20代と見られる中国人男性に腰を蹴られる暴行を受けたことが報じられた。

 

 同じ日の夕刻、日本の東京・永田町では、新しい歴史教科書をつくる会(杉原誠四郎会長・当時)など右派派22団体が加盟する「南京の真実国民運動」(渡部昇一代表)主催の「『南京事件』の真相に迫る国民集会」というイベントが開催された。司会を務めたジャーナリストの大高未貴氏は冒頭次のように切り出した。

 

 「いまから75年前の12月13日、日本軍は南京を陥落させました。この日本軍の偉業というべき南京攻略を貶める、いわゆる南京大虐殺。そんなものがあったとは考えられない、率直な議論をしようと河村たかし名古屋市長が提言したところ、南京市から姉妹都市交流の中止と報復措置の脅しを受けるとんでもない事態となりました。河村市長の勇気ある正当な主張を断固支持しようという国民運動が起こり、(中略)各地で集会などが行われてきました。国民運動の総集編というべきイベントが本日の集会です」

 

 この種の集会の慣例である参加者全員が起立しての「君が代」斉唱のあと、主催者として挨拶した社会評論家の加瀬英明氏は、訥々とした語り口ながら、「日本国民が南京大虐殺はまったくなかったということを確信しない限り、この国が力を回復することはありえない」と一席ぶった。

 

 会場から「そうだ!」の掛け声と大きな拍手がわき起こると、勢いを得たのかさらに続けて、「南京戦はあったが南京大虐殺はなかったということが日本国民の常識となれば、その一つだけで他のことはすべて正されます」と話を締め括った。

 

 会場を見渡すと、初老以上の年代の男性を中心に数百人の席がほぼ埋まっている。わずか3日後に迫った総選挙の応援で、会場に駆けつけられなくなったと弁明した河村たかし市長からのメッセージもその場で朗読された。

 

 内容は「いわゆる南京事件はなかったのではないか。何でもかんでもアイム・ソーリーの時代を超えて、少なくとも日本では南京事件について自由に議論できる日が一日も早く来る努力を続けます」といった短いものだったが、河村氏はこの集会の主催団体が中心となって掲載した2回の意見広告(産経新聞/8月3日・9月24日付)が「どれほど励みになったか」と感謝の気持ちを付け加えるのを忘れなかった。

 

 南京事件とは、日中戦争が始まった1937(昭和12)年、同じ年の暮れの南京攻略戦において、日本軍が南京陥落後、数週間の間に、投降した中国兵や一般市民など多数を不法殺害したとされる事件で、被害者総数は、中国政府の主張する30万人から、旧日本軍関係者らの団体などが算出した3~4万人説までさまざまある。

 

 冒頭の集会では、主催者代表の上智大名誉教授・渡部昇一氏が「あるはずがない南京虐殺」と題して基調講演を行い、その中で「殺された市民は限りなくゼロに近いと断言できます」と胸を張った。つまり、不法な虐殺は存在しなかったとの立場(=ゼロ説)なのだ。

 

 もともと南京事件については、政治運動と結びつく形で「大虐殺派」と「まぼろし派」、さらにその「中間派」という3つの立場が存在してきた。最近は冒頭の集会で見られるような極端な「まぼろし派」が国家主義化する社会的風潮とともに勢いを得て、世代交代の結果、「新まぼろし派」とも呼ばれている。

 

 少なからず沈静化していた論争の寝た子を起こすきっかけを作ったのは言うまでもなく、昨年2月、姉妹友好都市の南京市の幹部らの表敬訪問団に対し、「一般的な戦闘行為はあったが、南京事件というのはなかったのではないか」などと問題発言した河村名古屋市長である。

 

元軍人が寄せた多くの証言

 

 河村市長の父親は一九四五年の終戦直後、南京事件から七~八年後に南京市の郊外に駐屯し、現地の中国人に親切にされたと生前繰り返し語っていたという。もしそんな虐殺事件が過去にあったとすれば、親切にされることなどありえないだろうという河村氏自身の推測に基づく疑問なのだが、はたして史実を的確に踏まえた発言といえるのであろうか。

 

 「河村さんのお父さんがいたのは(南京)事件から8年後でしょう。風が吹けば桶屋が儲かるよりも遠い話で、お父さんが親切にされたといったからといって、(南京虐殺がなかったという)証明にはなりません。まして(事件当時の)現場にいたわけでもない。終戦直後といっても、中国軍はまだ復帰しておらず、武装している日本軍を、怒らせたら何をされるかわからないと現地の人は恐れていたはずです。本当に友好的なムードだったのかどうかも実際はわからない。もし河村市長の言うことが事実だったとしても、8年後では住民も多くが入れ替わっています。元国会議員で南京市の友好都市でもある名古屋市長という立場を考えれば、軽率な発言としか言えません」

 

 そう語るのは歴史家の秦郁彦氏だ。秦氏は先の区分でいえば「中間派」の代表的人物として知られ、86年以来、26刷を重ねる『南京事件』(中公新書)の著作などにおいて、不法殺害数について捕虜の不法殺害三万、民間人殺害一万の計四万人説を唱えてきた。その主たる根拠となっているのは、南京戦に参加した日本軍諸部隊の戦闘詳報(現存するもの、約6割という)を軸に、それを裏付ける陸軍兵士の直接証言や日記などの物的証拠だ。いわゆる最重要の一次史料に依拠して算出しているといってよい。

 

 振り返れば、南京戦に携わった元兵士らの直接証言が集まるようになったのは皮肉な成り行きだった。82年に「中国侵略」を「中国進出」などと書き換えた教科書問題が起き、南京虐殺の犠牲者数が30万人に及ぶかのような言説が定着し始めたため、現地の様子を知る元兵士らの胸中には、「不法殺戮があったとしても、そんなに多いはずがない」との疑念がわき起こった。

 

 陸軍士官学校卒業生で構成する親睦組織「偕行社」(現在会員9000人)が、自ら発行する機関誌『偕行』(83年10・11月号)において、会員向けに南京事件に関する情報提供を呼びかけたところ、全国からさまざまな情報が寄せられた。連載は「証言による『南京戦史』」として、84年4月号から1年にわたり続けられ、最終的には3分冊の『南京戦史』(非売品)としてまとめられている。

 

 当初は30万人説を打ち消し、旧日本軍部隊の名誉を晴らす意図から始められた企画だったが、「『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた」「『直ちに銃殺せよ』と命じられた」などの直接証言が相次ぎ、さらに、「俘虜ハ処断ス」の文字が残る戦闘詳報も出てきた。投降した捕虜や一般人に紛れ込んだ兵士(便衣兵)を取り調べもせずに処刑したことを示す物証だったから、日本軍の大量処刑が国際法違反の行動であることは明らかだった。

 

 犯罪にたとえれば、加害者が自らの犯行を「自供」した形となり、この時点で「まぼろし派」の唱えるゼロ説は完全に瓦解した(はずだった)。

 

 軍関係者による調査結果には、裏づけとなる史料も多数存在する。つまりこの時点で、虐殺(=大量処刑)があったことは紛れもない事実であり、あとはその規模がどれくらいになるかで説が分かれるという状況だった。

 

本質から外れた議論

 

 冒頭の集会では、渡部昇一氏のほかにも、「南京虐殺は国民党の戦時謀略宣伝である」(茂木弘道氏)、「『歴史侵略』を受け入れる日本の教科書」(藤岡信勝氏)と主張する登壇者が「専門的に研究された先生方」(加瀬氏)として紹介され、報告を行った。話を聞いていると、一つのはっきりした傾向が見てとれた。

 

 新しい歴史教科書をつくる会副会長で拓殖大学客員教授の藤岡氏の言葉を借りれば、「南京事件は3回捏造された」という。1回目は南京事件当時、南京市で活動していた外国人宣教師などで、ベイツ牧師などをあげる。2回目は南京事件の被害者を20万と認定した東京裁判。さらに3回目が、日中国交回復と時を同じくして始まった「朝日新聞」の本多勝一記者によるキャンペーンを指す。

 

 「新まぼろし派」の特徴は、すでに紹介した秦郁彦氏の著作や偕行社の史料などには触れようとせず、それでいて南京事件当時、南京市内で活動していた外国人宣教師や新聞記者について、「中国国民党の工作員だった」と断定的に述べ、なかにいは、聖職者を指して「人間のクズ」とまで言い切っている場面もあった。

 

 南京事件を最初に世界に発信した人々が、公正な立場の人物ではなかった=事件はでっち上げだった、という論理なのだが、よく考えてみると、虐殺がなかったことの証明には到底ならない。当時の虐殺現場を「撮影」した写真が、国民党宣伝部のやらせ写真だったなどの指摘もなされているが、だからといって虐殺がなかったと断定するのは難しいだろう。いずれも本質的な議論に当たらないものばかりだ。

 

 「新まぼろし派」の中核が、2000年に設立された「日本『南京』学会」と称する団体であり、その会長をつとめる亜細亜大学教授の東中野修道氏であることは関係者の間では知られている。

 

 その東中野氏は、自ら執筆した南京事件に関する著作『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社、98年発行)で、南京事件の被害者である夏淑琴さん(事件当時8歳)をニセ証人であるかのように記述したことがあった。夏さんは民事訴訟を起こし、東中野氏が出版社とともに400万円の損害賠償を命じられた事実はあまり知られていない(09年2月最高裁で確定)。東京地裁の一審判決は、「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」(07年11月2日判決)とまで厳しく非難している。

 

 それでいてつくる会の杉原会長は、「南京学会を舞台に、その後、南京事件の研究は飛躍的に進んだ」「発足の後、研究は速やかに長足の進歩をとげ、『南京事件』は存在しなかったということが確実に証明されたのである」と平然と記述しているから、主張の正当性が疑われよう。

 

 新聞報道によると、南京事件の被害者は高齢になり、すでに200人を切っている(12年12月14日付「毎日新聞」)。冒頭の集会からわずか2日後、名古屋市で開かれた市民集会の証言者として登場した夏淑琴さんもその一人だ。

 

 75年前の12月13日の朝、日本軍兵士30人ほどが自宅に押し寄せ、父親を殺害し、母親を強姦殺害、祖父母を射殺、15と13歳の2人の姉も強姦後に殺害され、8歳の本人と4歳の妹だけが奇跡的に生き延びた体験を持つ。

 

 こうした多くの証拠を残す南京虐殺について、「南京事件はなかった」などと今さらながらに主張するのは、日本側からの視点で考えれば、広島・長崎の被爆者や水俣病の被害者を、ニセ者扱いするのと同じではないだろうか。

 

 先の偕行社の調査では、責任者の加登川元中佐が、「大量の不法処理には弁解の言葉はない」として、「中国国民に深く詫びる」との謝罪文を掲載した経緯がある(85年3月号)。歴史家の秦氏も、自著のあとがき部分で、「数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の『虐殺』と各種の非行事件が起きたことが動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえない、と確信する」(『南京事件』)と記述する。

 

 大事なことは、「事実」をありのままに受け止めようとする姿勢ではなかろうか。