大国の核実験に賛成した日本共産党
「ソ連の核実験は平和目的、米国は戦争目的」
核兵器禁止条約「採択」の年に考える
1961(昭和36)年は、いまから半世紀以上前のひとつの地点にすぎないものの、今年(2017年)と比較すると、明確な共通点がある。
偶然ながら、ともに東京オリンピックの3年前に当たっているという客観的な事実だ。
1961年の国際情勢をふり返るとき、今年の出来事と対照的な歴史が残されていることに驚かされる。
本年7月7日、ニューヨークの国連本部で、核兵器禁止条約が採択され、核兵器が国際的に初めて違法とされる画期的な前進が見られた。
この会議に、日本の政党では、日本共産党だけが参加したと「しんぶん赤旗」は胸を張る。
だが、その共産党が1961年に、核兵器に対して、どのような行動をとっていたかを知れば、多くの人がその一貫性のない態度に驚嘆するに違いない。
同党は過去の事実など、日本国民は関心ないはずとタカを括っているようだが、歴史を覆すことはできないし、「不都合な真実」を隠し通せるものでもない。
同党は過去に自ら犯した過ちにより、その欺瞞性がいよいよ浮き彫りになりつつある。
ソ連が核実験再開に踏み切った1961年
本年7月26日付の「しんぶん赤旗」に、8月6日に広島市で行われる原水爆禁止世界大会で志位委員長があいさつすることが決まった旨を発表する記事が掲載されていた。
7月の核兵器禁止条約の採択において、実績をアピールする狙いがあることは明白だった。
実は1961(昭和36)年8月にも、同じように原水禁世界大会が外国の代表を招いて東京で開催された。
大会は9~11日に東京・高輪プリンスホテルで予備会議、さらに12~14日に総会大会という6日間の日程で開催され、外国代表団の中心はソ連代表というように、各国の革新勢力を主体とする構成だった。
まだこの時点で、主催する母体組織の原水協は社会党系・共産党系が合同で運営しており、分裂には至っていない。
NHK取材班がまとめた『旧ソ連 戦慄の核実験』(1994年)によると、このころの国際情勢は次のようになる。やや長くなるがそのまま引用しよう。
「ソ連は58年から核実験の一時停止を続け、60年にはアメリカ、イギリスも核実験を行わず、世界では核実験中止への期待が高まっていた。その時点では、アメリカの核兵器は3000発、ソ連は300発ほどと推計されており、核実験の中止は、核軍拡の狂気から引き戻す第一歩となるはずだった。しかし、それはつかの間の平穏に過ぎなかった。61年、世界は再び緊張に、いや破局の一歩手前に向けて動き出す」
世界的には核実験が一時的に停止されていた時期であり、核実験中止への期待が高まっていたという。
当時、ソ連の指導者はフルシチョフ、一方のアメリカはケネディが大統領に就任して間もないころだった。
話を戻すと、1961年8月の第7回原水禁世界大会では、多くの決議が採択された。
その中に核実験再開を阻止するための努力が明記され、「もし不幸にして今後実験の再開あるいは継続が行われた場合には、その国は全世界人民の願いをふみにじり、戦争への道を選ぶ平和の敵として糾弾されなければならない」(アカハタ8月17日付)との勧告文も採択された。
いまから振り返れば、ごく当然の内容といえよう。
ところが、核実験を最初に再開した国は「平和の敵」として糾弾されなければならないとするこの決議が、その後、当時の社会主義陣営、ひいては日本共産党にとって大きな問題となっていく。
原因をつくったのはソ連だった。大会からわずか半月後の8月30日、ソ連政府は核実験を再開することを一方的に表明したからだ。
先の決議内容からすれば、ソ連が「平和の敵」として糾弾されなければならなくなるはずだった。
この事態に対する日本共産党の態度は、スピーディーながら、矛盾に満ちたものだった。
ソ連の手下として動く
1961年8月、東京で開催された「原水爆禁止大会」を、当時の共産党機関紙『アカハタ』は連日大々的に取り上げた。8月4日付で「第7回原水爆禁止世界大会近づく」の見出しで1ページを丸々使って告知記事を掲載したほか、10日付の1面トップで「第7回原水爆禁止世界大会予備会議開く」「団結と躍進の大会 完全軍縮促進の旗高く」の記事を掲載。
13日、14日、16日付でもいずれも1面トップで取り上げ続けている。
その上で17日付では、「原水爆世界大会の成功と今後の課題」と題する社説を1面に掲載した。
さらに2面には「原水禁世界大会の諸決議」を掲載した。
共産党中央機関紙がこれだけ大々的に取り上げる背景には、原水協が同党の傘下組織として組み込まれ、同党の重要な基幹活動の一つとして捉えられていた側面がある。
前述のように、上記の諸決議の中には、核実験の再開が今後行われた場合、その国は「戦争への道を選ぶ平和の敵として糾弾されなければならない」との条項も盛り込まれていた。
共産党の想定からすれば、「平和の敵」は憎きアメリカのはずだったが、実際は核実験の再開を言い出したのは、アメリカではなかった。
8月30日、ソ連が核実験を行うことを発表すると、日本の新聞では31日付夕刊で1面トップ級で報じられ、世界中が大騒ぎとなった。
そもそも日本は広島、長崎と2度の原爆被害にあった当事国であり、1954年にはビキニ事件で3度目の被爆を受けたと捉えていた。
そうして翌55年に、第1回原水爆禁止世界大会が広島で行われる流れがつくられ、原水爆禁止運動に対しては世論の関心も高かった。
だが、ソ連の一方的な声明に対し、日本共産党はソ連を「平和の敵」として糾弾することはしなかった。
そればかりか、変わり身の早い変節で、世間を驚かすことになった。
9月1日付のアカハタでは、早くも1面トップで、「ソ連政府 核実験の再開を決定」「第三次世界大戦の破局を防止」の大見出しのもと、ソ連の核実験を容認する姿勢を鮮明にした。
同日付に掲載された「ソ連の核実験再開声明と日本人民」と題する社説では、「世界でただ一つの原爆被害国である日本の人民は、今回のソ連の核実験再開をどのように受けとめるかという重大な問題に直面している」と口にしつつ、「ソ連政府がソ連をはじめとする社会主義諸国への侵略をたくらんでいる帝国主義の核戦争準備にたいして手をこまねいておれないのは当然」「ソ連の今回の態度は戦争をにくむすべての人びとによってうけいれられるもの」と、あからさまに容認を表明した。
さらに9月2日付紙面においては、「ソ連声明 戦争勢力に重大打撃」と1面トップで大々的な宣伝を繰り返し、同日付の社説においては、「ブルジョア言論機関は、ソ連の今回の措置を非人道的なものであるかのように非難しているが、これこそ真に平和を守り、核戦争への道を閉ざすための必要な措置である」と言い切り、ソ連政府の声明全文を大きく掲載してみせた。
ソ連の言い分をそのまま垂れ流し、私たちも同じ立場ですと、社会的に宣言したのである。
まさしく当時の日本共産党が、ソ連の言いなりとなって動いていた何よりの証拠である。
それから当面の間、同党は、ソ連の核実験再開に賛同するキャンペーンを大々的に繰り広げた。アカハタ紙上には「ソ連訪問」と題する別の連載なども始まり、まるでソ連が「理想の国」であるかのような演出に躍起になった。ちなみに同党は同じころ、北朝鮮についても「地上の楽園」と宣伝していた事実がある。
9月8日付のアカハタでは、内野竹千代・中央委員会統一戦線部部長が、重要な論文を掲載した。
先の原水禁世界大会で核実験再開の国は「平和の敵」とみなすとした決議について、決議のこの部分は「正しくなかったといわなければならない」とまで言い出した。
≪変節≫の限りだが、内野部長はその理由について次のように語る。
「ソ連の核実験再開表明は、アメリカ帝国主義を先頭とする戦争挑発者、戦争ヒステリーどもに冷水をあびせかけ、かれらの頭をひやすとともに、これまでになく国際緊張緩和、全面的かつ完全な軍縮実現への国際世論をたかめている」
まさしく当時の共産党は、ソ連が右といえば右、左といえば左にそのまま動く政党にすぎなかった。
ソ連とアメリカの核実験は別もの?
1961(昭和36)年ごろといえば、個人的に思い出すことがある。
過去に日本共産党と北朝鮮との関係を調査した際、当時の『アカハタ』を丹念にひっくり返して感じたことだ。
北朝鮮帰国事業が始まるのが1959(昭和34)年12月。
その前後の同紙をながめながら感じたことは、北朝鮮を当時はあれほど「地上の楽園」と持ち上げていたにもかかわらず、その後は手の平を返すような極端な態度をとっていたことだ。
そのことはソ連においても、まったく同様だ。
西のアメリカと比較し、東のソ連は、当時の日本共産党にとって同じ共産主義を信奉する同志であり、大先輩であり、盟主だった。
その証拠となるのが当時の同党トップであった野坂参三議長の次の言葉であろう。
9月9日付のアカハタ号外では1面すべてを費やし、「野坂議長と一問一答」「ソ連の核実験再開と日本人民」のタイトルで、議長の見解を発表している。
そこで野坂は次のように説明していた。
「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という非常手段に訴えることはやむをえない」
「ソ連は、その社会体制のなかに戦争を生みだす要因を全然もたぬ社会主義国です。ソ連の軍事力が侵略戦争のためのものではなく、逆に侵略戦争を抑え、世界平和を確保するうえで決定的な役割を果たしてきた‥」
さらにソ連の核実験再開について、次のような理由で正当化していた。
「ソ連政府の思い切った手段は、アメリカ、西ドイツ、その他の戦争屋どもに、もし戦争をしかければ、決定的にやっつけられることを、具体的事実をもって示し、かれらの危険な計画を実行することをちゅうちょさせ、あるいは、一応、思いとどまらせる効果をもたらすことは確か」
要するに、社会主義国は戦争を生み出す要因の全くない「理想の国家」であり、一方でアメリカを中心とする西側諸国は侵略戦争を起こす「危険な国々」であり、なおかつ「戦争屋」にすぎない。
そんな「戦争屋」どもに、ソ連の核実験を見せつけることで、戦争を起こす意欲をなくさせる。
その行為に何の問題があろうか、と言ってのけているわけである。
先の原水禁世界大会で決議された「平和の敵」の文言についても、野坂は、「率直にいって、決議のこの部分は不用意な表現であり、正しいとはいえません」とここでも繰り返し、自分の考え方を次のように端的に示していた。
「ソ連の行う核実験と、侵略的な帝国主義のおこなう核実験とを同一視して、無差別にソ連を平和の敵と断ずることがどんなにまちがっているかわかると思います」
野坂は、侵略的帝国主義の代表たるアメリカの核実験と、ソ連の核実験とを「同一視」することは誤り、とアカハタ号外において断言したわけだった。
半世紀以上すぎた現代において、この行動をふり返るとき、当時の日本共産党の主張が「正しいもの」だったとは到底いえない。
ちなみに当時の共産党のツートップは野坂議長・宮本書記長だが、その後、宮本委員長・不破書記局長へと移行し、さらに不破委員長・志位書記局長、そして現在の志位委員長・小池書記局長へとつながる。
野坂参三は死後にスパイ容疑で党を除名されたいわくつきの人物だが、当時の宮本顕治書記長は不破哲三にとって自分を書記局長にまで引き上げてくれた大先輩であり、半ば師匠でもあった。
つまりそうした宮本が書記長としてかかわっている以上、当時の政策的な誤りが今の体制と関係ないと言い逃れしたとしても通用するものではない。
草の根平和団体を分裂させた過去
7月30日付の「しんぶん赤旗」(2面)に、北朝鮮のミサイル発射の記事が出ていた。
見出しには「米国の脅しに核の力で対抗 核なき世界の流れに逆行」とある。
いまから56年前にも、同じように米国の脅しに核の力で対抗しようと、大規模核実験の再開を表明した国があった。
だがそのときは、日本共産党は「核なき世界の流れに逆行」とは主張しなかった。
これまで見たとおり、以下のように主張していた。
「核実験再開 ソ連声明は平和の保障」(9月6日付)
「戦争挑発防ぐ措置」(9月9日付)
要するに、日本共産党はいまだにソ連を狂信する集団にすぎなかった。
しかも同党の行動は、日本社会に根づきつつあった草の根の原水爆禁止運動にも大きな亀裂をもたらす要因となった。
偶然ながら、7月30日付の朝日新聞に、ベタ記事で、「福島で原水禁世界大会」の記事が載っている。
29日に福島市で原水禁(旧総評系)の世界大会が開幕したとあり、一方で、原水協(共産党系)の世界大会は8月5日に広島市で始まると書かれている。
1961年当時、「原水協」一本でまとまっていた原水爆禁止を求める日本の草の根運動は、共産党がソ連の核実験を認める方向にかじを切った結果、ソ連にも抗議すべきだと主張する旧総評系(旧社会党系)の反発を受け、組織が二分化される結果となった。
その後、草の根組織は分裂してしまう。
歴史を振り返れば、共産党があのとき、ソ連の核実験再開声明は「核なき世界の流れに逆行」すると主張していれば、日本の原水禁運動団体が分裂することもなかったかもしれない。
核実験反対の国会決議に唯一反対した政党
共産党といえば「わが党こそ〇〇した唯一の政党」というフレーズが大好きだ。
政党助成金を受け取っていない唯一の政党、ソ連・中国共産党の横暴と戦ってきた唯一の政党、あるいは最近では豊洲市場移転に反対してきた唯一の政党などだ。
ところで、平和分野においては、次の「唯一」も付け加えておかなければ不公平になるだろう。
過去に核実験禁止に関する国会決議案に唯一、反対した政党であるという、歴然たる事実だ。
1961(昭和36)年8月末、ソ連が一方的に核実験再開を表明、断続的に実験を続けるなか、50メガトンという大規模実験を強行したのは10月23日、モスクワでソ連党大会を開催しているさなかのことだった。
この大会に日本共産党からは野坂議長、宮本書記長など同党トップ幹部が参列している。
そんな渦中で行われたソ連の大規模核実験は、日本の一般紙でも大々的に報道され、社会的に大きな問題となった。
一方で、さすがにバツが悪いと思ったのか、日本の「アカハタ」ではこの件をほとんど扱っていない。
ともかく、日本の一般国民は大騒ぎとなった。
10月25日、衆院で「核実験禁止に関する決議案」が上程され、自民、社会、民社などが賛成するなか、共産党だけが反対するなか、可決された。
さらに2日後の27日、参院でも同じ決議案が上程される。
このときも反対したのは唯一、共産党だけだった。
アメリカの核実験はダメだが、ソ連の核実験はオーケーという態度はここでも一貫していた。
これは日本の国政史上における歴然たる事実の一面だ。
日本共産党は1961年10月、国会両院でなされた核実験禁止決議において、唯一、徹頭徹尾「反対」した政党にほかならなかった。
上田耕一郎が主張した修正主義理論
8月1日付の「しんぶん赤旗」に、不破哲三前議長の1回目の連載論文が大きく掲載された。
タイトルは「『資本論』刊行150年に向けて」というもので、14回を予定しているらしい。
いまだ“不破頼り”の同党の現実を示すものだが、不破哲三こと上田建二郎の実兄・上田耕一郎は、党本部勤務前の1962年、月刊誌「前衛」10月号にソ連の核実験に関連する有名な論文を発表した。
タイトルは「2つの平和大会と修正主義理論」と題するもので、以来55年たって読んでみると、まったく使い物にはならないひどい内容だ。
同党が「科学的社会主義」などと名称だけ名乗ってみたところで、半世紀たてば全く色あせてしまうような思想・哲学がはたして「科学」の名に値するだろうか。
上田論文は全部で15ページ。
「2つの平和大会」とは1962年に開催された第8回原水爆禁止世界大会と、モスクワで開催された「全般的軍縮と平和のための世界大会」なる大会のことで、題材になっているのは、社会主義国の核実験をどのようにとらえるかという観点だった。
上田によると、「アメリカ帝国主義がますます『平和の敵』としての姿を明らかにし」、一方で「ソ連が行動の上でも政策の上でもますます『平和のとりで』としての姿を明らかにしてくる」と規定し、原水協のような東西に偏らないという「基本原則」を形式的に追求するならば、「事実上帝国主義の方向にかたよることとなるであろう」と決めつけている。
その上で、「帝国主義の軍事力だけでなく社会主義の軍事力をも平等に否定する絶対平和主義」や、社会党が唱えるような「積極中立主義」は間違った考え方であり、社会主義国の軍事力は「平和の維持のためにのみ使用されてきたのであって、社会主義の軍事政策は、安定した平和共存をめざす系統的な『平和政策』の一部」と主張してやまない。
その結果、「社会主義の防衛的軍事力は、帝国主義の侵略的軍事力に対抗するに必要なかぎり、ひきつづき発展させられなければならない」と強調し、ソ連の核実験についても、「極度に侵略的な戦略を完成しようとするアメリカの核実験にたいして、ソ連が防衛のための核実験をおこなうことは当然であり、世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置にほかならない」と結論づけている。
この論文のタイトルとなっている「修正主義理論」とは、社会主義国の軍事力はすべてが平和目的であり、アメリカなどの帝国主義国の軍事力と比較したときに、次元の異なるものであることを理解しない考え方のことを指している。
つまり、当時の社会党が主張したように、アメリカの核実験もソ連の核実験も同等のものとして非難するべきという考え方のことを指している。
ひるがえっていま、日本共産党はすべての核はいけないと主張しているようだ。当時の上田耕一郎の書いた論文によれば、いまの日本共産党の姿は、「修正主義」そのものということになる。
ソ連に盲従した拭いがたい歴史
1961(昭和36)年当時、日本共産党がソ連を「盲信」していた証拠は、当時の党中央機関紙「アカハタ」をひも解けば、だれの目にも一目瞭然だ。
例えばソ連から要人(第1副首相)が来日した際、アカハタ紙上で「ようこそ平和・友好の使節」(8月15日付)と持ち上げて大々的に歓迎し、同時に東京で開催された「ソ連見本市」を特集(8月26日付)。
他国に比べて工業化が大きく進展し、社会主義の優位性をことさらに強調している。
さらに「ソ連の『老人ホーム』を訪ねて」(9月9日付)と題する特集記事では、ソ連がいかに夢のような国であるかを演出してやまないといった具合だ。
9月上旬には党最高幹部の志賀義雄を団長とする訪ソ団を派遣。
宮本顕治書記長も合流し、「ソ連詣で」に励んでいた。
10月には第22回ソ連共産党大会へ出席するため党ナンバーワンの野坂も訪ソしている。
10月14日付のアカハタでは、「共産主義社会がそこまできている」とソ連党大会について特集し、「人類の夢が現実に」「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」「食堂、家賃、電気、バス みんな無料に」「農村は都市なみ」「ほんとうの民主主義」などの踊るような見出しで、ソ連を理想の楽園のように描いていた。
10月17日付の社説では、「共産主義を地上に建設するソ連共産党大会の偉業」というタイトルのもと、以下のように記述していた。
「ソ連は、核実験再開声明によって、アメリカを先頭とする帝国主義者の新戦争挑発の計画に一大打撃をあたえた。それは、完全に勝利した社会主義の国だけがもつ、偉大な力量を証明した」
「戦争と反動の源泉は帝国主義であり、平和と進歩の源泉は、社会主義であることが、決定的に証明されるであろう」
「日本人民も、必ず共産主義への道をふみこむであろうし、またふみこまなければならない」
「わが党こそ、日本人民を社会主義、共産主義の道に導く準備をもっているただ一つの党」
11月になると、3回目となる「アカハタ祭り」が東京で開催され、宮本書記長は「われわれも、この生きている時代に必ず、民主主義革命から社会主義へ、さらに共産主義社会を建設しようではありませんか」と参加者に呼びかけていた。
さらにソ連の社会主義10月革命を記念した党主催の講演会を杉並公会堂で開催し、宮本書記長、野坂議長がそろい踏みする。
野坂議長は「ソ連から帰って」と題する講演を行い、ソ連の核実験再開声明についても言及。
「核兵器をどこの国がもつかによって、平和の武器にもなり、戦争の武器にもなる」と強調し、ソ連の核実験は平和目的であり、戦争目的のアメリカとは意味が違うことをここでも繰り返している。
議長の野坂参三は、ソ連共産党大会でアメリカ共産党の代表が「20年後にはアメリカでも必ず社会主義社会をつくる」と述べたことを引き合いに出し、日本でも必ずそうなると声を張り上げていた。
「今晩の集会には、若い人が多いようですが、みなさんはもちろん、年をとっておられるみなさんのこどもやお孫さんの時代には、必ず日本も社会主義、共産主義の社会になっています」
最後に「私は確信をもって、こう断言することができます」との言葉で締め括った。
これらを見れば明らかなように、当時の同党は上から下まで、社会主義国ソ連をバラ色に描き、社会主義・共産主義という思想を盲目的に崇めつつ、日本も必ず将来そうなるとの「妄想」を抱きながら、大衆に垂れ流す存在にすぎなかった。
だが、歴史の現実は、そのようには進展していない。
不破哲三の歴史的な虚偽講演
不破哲三こと上田建二郎前議長が7月に行われた党創立95周年記念講演会において講演を行った。
1961年当時、日本共産党はソ連の社会主義10月革命を記念して11月ごろに党主催の講演会を開催していたが、そうした事実自体、当時の共産党がソ連の「手下」の存在であったことを裏づける。
それはともかく、不破は上記講演会において、60年代から70年代にかけ、ソ連共産党と中国共産党という「2つの巨大な敵を相手にしてたたかった」と強調し、そんな共産党は「日本共産党以外には、世界のどこにもありません」と誇らしげだ。
不破が話した内容によると、1960年11月、第2次世界大戦後、世界の共産党を集めた最初の国際会議が開かれ、そこに日本共産党が参加したことを紹介している。
不破はその中で、「自主独立の立場をとった党は日本共産党だけでした」と語っている。
要するに、ソ連の手下ではなかったと否定するための言葉なのだが、これまで見てきたとおり、1961年においてさえ、同党が日本で唯一、ソ連の核実験にいち早く賛同の声をあげ、日本の原水爆禁止運動に亀裂を入れる原因となったことは、歴史に刻まれた事実である。
さらに不破は、「私たちは、1976年の党大会で、ソ連流の『マルクス・レーニン主義』と手を切ることを決定し」たと自画自賛。
逆にいえば、それまではずっと「ソ連の部下」として動いてきたことを自認しているに等しい。
日本共産党が核実験に賛成した1961年はもとより、ソ連の最初の原発稼働を手放しで喜んだ1954年を含め、同党は少なくとも20年以上もの間、ソ連に「盲従」した過去をもつ政党だ。
コミンテルンの日本支部として党が創設された1922年から数えれば、実際は半世紀以上もの年月であり、同党の95年間の党史の実に半分以上は、ソ連の手下としての歴史にすぎなかった。
だが、そうした時代が長く続いたにもかかわらず、その事実に敢えて言及せず、当然ながら反省も行わず、「われわれこそは自主独立の党」と胸を張ってみせる姿。
そこにあるのは、都合の悪いものにはフタをし、都合のいい事実だけを取り出して拡大するいつもの宣伝手法にすぎない。
7月30日付の「しんぶん赤旗」には、先の都議会選挙で再選した大山とも子幹事長が写真入りで登場。記事の中で、「大山氏らは、党創立95周年記念講演で、ソ連や中国の干渉攻撃とたたかって自主独立を貫いてきた党の歴史が分かりやすく語られ、参加者から『すっきりした』と好評を得た」などと紹介していた。
同党では、党の最高幹部が話したことはそのまま事実と受け取られるようだ。ソ連の干渉攻撃とたたかった歴史とともに、それ以上に長い期間、ソ連の「手下」として動いた過去にふれないと不公平というものだろう。
95年間の党史を欺き、美化するだけの行動は、党の先人への冒とくそのものだ。さらにおそるべき思考停止にしか思えない。
なされないままの「総括」
8月3日、広島で原水協(共産系)の世界大会がはじまった。「しんぶん赤旗」はこのニュースを1面トップで大きく取り上げ、「歴史的な原水爆禁止世界大会」「条約は積年の到達点」などの見出しを立てた。
赤旗日曜版の記事によると、「条約は核兵器の非人道性を告発」とし、さらに北朝鮮のICBM再発射について、「志位委員長『厳しく抗議』」の見出しを立てている。
これまで見てきたとおり、同党が最初からこのような主張を行っている政党であれば、なんら問題はない。
ところが、北朝鮮の核実験やミサイル発射には抗議しながら、半世紀前には大国の核実験に賛成していた。
そうした事実は消えてなくなるものではない。
さらにその後に方針転換を行った際の明確な総括も、同党ではきちんとなされていない。
過去の行動と現在の行動が大きく食い違う場合、そこには説明が必要だ。
公の政党ならなおさらそうだろう。
実際は、核兵器は非人道的な兵器であり、それが条約の核心であるのに、過去にはその非人道的兵器を「容認」し、大国の「核実験に賛成」してきた。
そうした過去に、同党は真摯に向き合うべきだ。
【2017年8月6日掲載】