【『月刊潮』2005年2月号】

戦後史における「創価学会報道」の謀略性④

被害者を殺人犯扱い!「白山名誉毀損事件」にみる恐るべき捏造報道の実態。
~「過失ゼロ」の交通事故被害者を襲った“ペンの暴力”。

砕け散った意図的報道

「10年前の夏もすごく暑かったんです。ですからあのときに似てるねと二人で話していたんです。事故があったのは10年前の7月21日なんですが、昨年の同じ日に家内の父親が亡くなったのです。これは、絶対忘れられない日を選んで亡くなったのかなと私どもも不思議な思いがしました」
こう語るのは1994年7月、一歩間違えば即死したかもしれない交通事故に遭遇した「被害者」の白山信之さん(57)である。
当時、北海道大滝村で運転していた白山氏の2トントラックに、反対車線から急接近してきた乗用車が、猛スピードでセンターラインを越えてぶつかってきた。白山さんは瞬間、「これで死ぬ」と思って気を失ったというが、シートベルトをしていたことと衝突具合が幸いしたのか、命に別状はなくおわった。
だが、乗用車を運転していた男性は数時間後に死亡。相手方の契約していた保険会社は、「(死亡男性の)スピードの出しすぎによるハンドル操作の誤りによる」事故として、廃車にせざるをえなくなった白山さんの業務用トラックなど、全額を弁償した。過失割合は「100対0」で、白山さんの過失は「ゼロ」であった。捜査した地元警察署も同様の判断をくだした。
ひとつの交通事故の処理はこれで終わるはずだったが、「事件」は思わぬ方向に発展していく。死亡した男性がたまたま室蘭市の日蓮正宗寺院の住職で、白山さんが創価学会員であったことをとらえ、一部メディアが“宗教戦争”による意図的事故のように書いたことがきっかけだった。中心的な役割をはたしたのは『週刊新潮』である。
この事故が、当時、日蓮正宗が大々的に取り組んでいた「6万総登山」の日程の直前に起きたことに結びつけ、学会が「6万総登山」を妨害するために関与したかのように描いたのである。その結果、100パーセント「被害者」であったはずの白山さんが、逆に意図的に住職を死亡させたかのような“報道被害”を惹起した。まさに“ペンの暴力団”の所業といってよい。
その後、『新潮』記事は国会質問でも政治的に利用されたほか、地元民放でも大きく取り上げられ、“被害”はさらに拡大した。
そのため、白山さんは94年10月、新潮社を相手どって民事提訴し、96年12月に一審判決、97年9月に高裁判決、98年3月に最高裁で確定した。結果は、被告新潮社に対し、当時としては名誉毀損訴訟では高額といわれた110万円の損害賠償が命じられた。さらに、国会質問で白山さんの名誉を傷つけた国会議員(自民党)も、判決が確定してまもない98年5月、白山夫妻に直接会い、謝罪の言葉を述べ、頭を下げた。
すべては『週刊新潮』による意図的報道から始まったといってよい。その中心的役割をはたしたのは、同誌編集部でその後も学会について重大な虚偽・捏造記事を執筆することになる「門脇護」という名のデスク(現在、副部長)だが、その背後には学会を陥れようとする退転者や自称ジャーナリストらが蠢いていた。

 

開き直る担当デスク

残暑のきびしい夏の日だった。事故から一カ月ほどすぎた94年8月、苫小牧市にある白山さんの自宅に、突然、「週刊新潮」の二人の若手記者が訪れた。平日だったこともあり、白山さんは仕事に出ていて留守だった。対応したのは、妻の栄子夫人である。
「先日のぶつけた交通事故のことで聞きたいことがあるんだけど‥‥」
記者は横柄な口調で開口一番、そう口にしたという。夫人が「詳しいことは警察に聞いてください」と答えると、記者の一人は脅すような口調で言った。
「ご主人はどこに仕事に行っているんですか。すぐ連絡をとってください。そうでないと、たいへんなことになりますよっ」
記者は大きな声でさらに尋ねた。
「(相手の)スケジュールを調べて後をつけて、わざとぶつけたんじゃないですか。相手の車も知っていたんじゃないですかっ」
まるで取材とは思えない、誘導尋問のような問いかけだった。
同日夜、白山さんが帰宅すると、もう一人の記者が尋ねてきて、昼間と同じ質問を、今度は当事者である白山さんに一時間ほど繰り返した。だが、この時点ですでに、新聞広告や電車の車内吊り広告用の見出しは決定されていた。
「大石寺『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」
この大見出しの記事(『週刊新潮』94年9月1日号)によって、白山さんの日常生活は一変することになる。なぜなら、交通事故の「被害者」であったはずの白山さんが、「衝突死させた」との見出しで“殺人者”扱いされることになったからだ。
妻の栄子夫人はショックのあまり、病院に入院。冷蔵庫の販売・修理業を営む白山さんの得意先からも「事情を聞かせてほしい」との問い合わせが寄せられたほか、実際に仕事をとめてきた業者もあったという。
だが、デスクとしてこの記事を執筆し、見出し作成にも関与した『新潮』編集部の門脇護デスクは、学会広報室長名の抗議に対し、書面で次のように回答した。
「なんとも笑止千万な言いがかりと言わざるを得ません。この場で、日本語について論議するつもりはございませんが、『事故で死んだ』当人が『事故死した』なら、相手方から見れば『事故で死なせた』となることは小学生にでも分かる理屈ではないでしょうか。『衝突死した』当人と、『衝突死させた』相手方を端的に表現した当該のタイトルに対して、何故それほどこだわるのか到底、理解できるものではありません。まして、小誌の記事は『タイトル』『リード』そして『本文』が三位一体で構成されているものです」
白山さんの代理人も抗議文を送付したが、同様の回答が寄せられた。白山さんが反省のカケラも見られない文面を目の当たりにして、提訴を決意したのはむしろ当然の心情だったといえる。
一審の証人調べは96年10月、札幌地方裁判所で行われた。この日の法廷に現われた門脇は、被告(新潮社)代理人の主尋問に対し、「私は、週刊新潮は日本で唯一の本当に真実を書くジャーナリズムであるというのは自負しております」と述べ、本件提訴についても、夫妻が傍聴している目の前で「訴訟権の濫用」と臆面もなく主張した。
一方、原告側の反対尋問に対しては、学会が計画的に起こした事故の可能性について取材を終えたあとどう思うかと聞かれ、「これは分かりませんでした」と素直に答えている。

 

新潮社の「完全敗訴」で決着

さらに交通事故が住職男性の一方的な過失ということで保険処理がなされたことについて、記事執筆段階でその事実を知っていたかと聞かれ、「それは白山さんの取材内容の中で○○君(※記者名)の報告の中からも上がっておりましたので、知っております」と証言した。
つまり、白山さんが交通事故の被害者であることを十分認識した上で、先の見出し記事を作成したことが明らかになったわけである。
その結果、一審判決は、「大石寺『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」という見出しを掲げた広告掲載それ自体を名誉毀損行為と認定する画期的なもので、記事本文についても「到底公正な論評と言うことはできない」として、新潮社に対し110万円の損害賠償を命じた。
二審判決でも、「本件大見出しに記載された創価学会幹部が大石寺僧侶を衝突死させたとの事実は真実であるということはできず、また、第一審被告(※新潮社)がこれを真実であると信じたこと、及び右のように信じたことに相当の理由があったことを認めるに足りる証拠はない」と結論づけ、98年3月、最高裁で確定した。
当時、まだ名誉毀損訴訟における賠償額が実際の被害に見合わない、と指摘されていた時期でもあり、現時点での裁判であれば、賠償額は4ケタに迫った可能性もある。現に熊本県でおきた交通事故を確たる証拠もなく保険金殺人事件に見たてた『週刊新潮』記事では、新潮社は賠償額990万円に加え、謝罪広告も命じられている(2004年10月、最高裁で確定)。

 

デマ報道の背景

ここで、日蓮正宗と学会の関係をめぐってこのようなデマ報道が出てきた背景を見ておきたい。
そもそもは91年11月、それまで協調路線をとってきた日蓮正宗が、創価学会を一方的に破門通告したことに端を発している。その裏には、20万人の信者がついてくればいいという「C作戦」なるものを授けた“元弁護士”山崎正友らの策謀もあった。このころ、反学会ジャーナリストとして世に公然と躍り出てきたのが「段勲」である。もともと山崎のいいように使われてきた男だが、後述するように白山さんの事件でも顔を出している。
当時、第二次宗門問題で学会批判キャンペーンを“先導”していたのは、『週刊文春』(花田紀凱編集長=当時)だった。91年だけで、通常の4年分に匹敵する150ページ近くの学会関連記事を手がけている。そこで起用されたのが、反学会ライターの先輩である内藤国夫や溝口敦に「男のジェラシー」(梅沢唯史氏)を感じていたとされる段勲だ。文春にパイプをもつ入獄直前だった山崎の口利きもあったかもしれない。段は、90年から91年にかけ、『週刊文春』誌上でたびたび署名記事を執筆。91年1月には阿部日顕との会見記を掲載したほか、月刊誌『宝石』などでも仕事をした。
もともと段勲は、レッキとした“元学会員”。日蓮正宗の住職であった高橋公純が実兄で、反学会ライターとしては、正信会機関紙「継命」元編集長の乙骨正生の“兄貴格”にあたる。乙骨は、父親が元共産党の幹部だった男。段勲の『週刊文春』での執筆が続いた後、九四年初頭になってこんどは乙骨が「創価大学出身官僚・政治家・マスコミ人全リスト」なるタイトルで“文春デビュー”をはたす。出身大学の卒業生のプライバシーをマスコミに「切り売り」することで、自分の名を世に知らしめようとしたのが乙骨である。自身の実績のためなら、他人のプライバシーなどどうなってもいいという発想の持ち主である。
いずれにせよ、段と乙骨は、恐喝事件を起こした山崎正友というバックがついた、歴然たる“学会退転者”であって、現在、「ジャーナリスト」という、さも中立を装って学会批判記事を書いていること自体、まやかしといわなければならない。実際は、学会問題を手がける他のジャーナリストと違い、“反学会活動家”がペンを握っている存在にすぎない。
この二人は、“元恐喝男”の山崎正友とともに、自民党が白山さんのデマ事件を国会質問するときの「質問づくり」にまで関与している。ジャーナリストの立場を完全に“逸脱”した行為といえよう。山崎が阿部日顕に書き送った書簡にこうある。
「それぞれについて、国会質問のための資料づくりを、私を中心に、段、乙骨の三人で作った上で、十日までに、自民、社会、さきがけの首脳、国対をまじえて最終打合せをすることになっています」
事実、94年10月11日には、NHKの国会中継がなされる衆院予算委員会の席で、自民党議員が『週刊新潮』を片手に振り上げ、白山さんらを糾弾する国会質問を行った。
ちなみに、白山裁判の証人尋問のなかで、新潮の門脇記者は、編集部に情報提供したのは、「学会ウォッチャーといわれる人たち」と述べているが、状況証拠からいえば、段勲らのことだろう。
この事件で暗躍したのが、日蓮正宗寺院・仏見寺(札幌市)の関係者であることはすでに裁判の過程で明らかになっているが、段は早い時期からこの寺院関係者と密接な関係を保っていた。『週刊文春』(93年4月1日号)、『宝石』(92年5月号)などがその証明になろう。
一方、『週刊文春』に遅れをとっていた『週刊新潮』が、本格的に学会攻撃に乗り出すのは公明党が与党入りする93年からである。同じ年の4月、懲役を終えた山崎正友が刑務所から出てくる時期とも符合する。
90年4月に、「週刊新潮」編集部の特集班デスクに就任した門脇護は、その後、多くの学会批判記事を手がける。その過程で、白山さんへの人権侵害事件を引き起こしたわけだが、本人にとっては筆がすべった程度にすぎなかったかもしれない。だが、この裁判で「完敗」する過程で、同人の“逆恨み”した心情はますますエスカレートし、とんでもない誤報や「捏造」事件を引き起こすことになる。 (文中敬称略)