【『月刊潮』2005年1月号】

戦後史における「創価学会報道」の謀略性③

政治的謀略の「月刊ペン事件」を悪用した山崎正友の“偽証工作”。
~自らの犯罪を正当化するための捏造スキャンダルの数々。

「月刊ペン事件」を悪用した山崎

かつて「月刊ペン」事件なるものがあった。1976(昭和51)年当時、2万部近く発行されていた『月刊ペン』(隈部大蔵編集長)という雑誌が、創価学会批判記事をキャンペーン化して連続掲載した。その3月号と4月号で、池田会長(当時)に関する悪質な“捏造スキャンダル”を裏づけもなく掲載したため、人権侵害の広がりを懸念した学会側が名誉毀損罪で刑事告訴し、編集長が逮捕・起訴されたという事件である。
裁判はその後、78年に一審判決、79年に二審判決が出たが、いずれも「公共性」が認められないとして、懲役10カ月、執行猶予1年の判決を言い渡し、隈部大蔵は出版関係者が刑事の名誉毀損事件で有罪判決を受けた“第1号”となった。
隈部が最高裁に上告した81年、最高裁はいわゆる“公人”であるとして、池田名誉会長に公人としての「公共性」を認め、一審への差し戻しを命じた。振り出しに戻った差し戻し審では、記事の「真実性」が審理されることになった。ここで山崎正友はこれ幸いと、隈部を支援する形で多くの“にせ証人”を調達し、得意の偽証工作を主導(あるいは援助)したのである。
具体名を挙げると、山崎本人に加え、酒と金で手なずけた元教学部長の原島嵩、すでに山崎の“拡声器”と化していたジャーナリストの内藤国夫を筆頭に、大宮市の脱会者(正信会信徒)だった小沢ヨネ、飯野なみ、金銭問題で除名された元学会員の寺田富子などである。
これらの人物を使って名誉会長のスキャンダルなるものを“捏造”し、さらに週刊誌などに派手に取り上げさせるなどキャンペーン化を図り、“世論操作”を企てた。このとき主体となったのは、『週刊新潮』と『週刊文春』の二誌である。
そもそも無実のスキャンダルなるものは、“騒ぎ得”の面が大きい。民事訴訟などの法的手段に訴えれば、逆にこれ幸いと騒ぎを大きくされ、長期的に、かつ興味本位に報じられる。週刊誌は売上げを伸ばして得をするだろうが、社会的に傷つくのは、皮肉にも無実の被害者側だけだ。
このときの山崎の目的は明確であった。創価学会のシンボルである池田名誉会長のイメージダウンを図ることで、自らの造反を“正義の告発”として正当化し、ひいては学会への恐喝の罪をカモフラージュするほか、自身を刑事告発した学会に対する意趣返しの意図も強くあった。
ふたを開けてみれば、山崎らの偽証工作はことごとく馬脚を現し、失敗に終わる。その結果、差し戻し審判決において、『月刊ペン』記事の「真実性」はなんら認められることなく、「無罪」を主張した隈部は再び“有罪判決”を受けたのである。
結局、76年に始まった刑事裁判は、隈部大蔵がガンに蝕まれて他界する87年まで10年以上の長期に及んだ。結論的にいえば、山崎が行った「月刊ペン」裁判の“悪用”も、自身の恐喝事件の「罪」を隠すための“手段”にすぎなかった。

 

捏造スキャンダルの時事的背景

「月刊ペン」事件の被告となった隈部大蔵は、現在、埼玉県の東武越生線沿いの墓地に静かに眠っている。
一角は「大乗教団墓地」ともいわれ、中央には管長一家のひときわ大きな墓石が目を引く。隈部家の墓はそこからほど遠くない場所にある。
隈部は1920(大正9)年、熊本県で生まれた。父親は医者で、男では3人兄弟の末っ子として何不自由なく育った。戦争にとられ、フィリピン戦線で闘ったあと、ゲリラ(スパイ)養成所である陸軍中野学校二俣分校(静岡県)に三期生として入校。このときの“秘密戦士”としての経験が、同氏の戦後の活動に深い影響を与えたようだ。
ちなみに二俣分校の一期生には、戦後30年近くたってルバング島から帰還した小野田寛郎少尉がいる。隈部が新聞社を退社する間際に実名で上梓した『秘密戦の赤き花~生きている中野学校の魂』(日新報道、73年)にはそうした体験が赤裸々につづられている。小野田への深い思い入れも読み取れる。
隈部は戦後、経済企画庁などに勤務したあと、1957年に西日本新聞に入社し、東京で経済担当の論説委員として仕事をした。在社中の67年ごろから、ペンネームで創価学会批判本を立て続けに執筆・出版。その動機には、妻が熱心に信仰し、自らも属した「大乗教団」の教えが深く影響していたようだ。隈部が執筆した一連の批判本には、釈迦を“本仏”としていた同教団の当時の教義が色濃く反映されている。
その後74年7月に新聞社を退社すると、隈部は月刊ペン社の編集局長として迎え入れられた。同社の社長だった原田倉治は当時、右翼の“大物総会屋”として知られており、内閣調査室の民間機関の責任者だったともいわれる。
実は、『月刊ペン』誌による学会批判キャンペーンの背景には大きな“伏線”があった。
同じころ、池田会長はソ連、中国を相次ぎ訪問、民間人の立場からの平和外交を果敢に進めていた。74年9月、ソ連を初訪問し、コスイギン首相から「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」との言葉を引き出すと、3ヵ月後の12月に中国を訪問し、周恩来などの中国側要人にその言葉を伝え、緊張緩和を図った。平和を求める仏教団体の指導者として、当時高まっていた「中ソ対立」の解消を目指した行動だったが、共産主義を敵視する権力側からは反発を受けた。
加えて、同年暮れには、創価学会と日本共産党による10年協定(いわゆる創共協定)が締結された。この協定は翌75年7月に「読売新聞」によってスクープされ、世に知られることとなったが、民衆勢力を基盤にもつ創価学会が当時、破竹の勢いだった共産党と手を結ぶことは文明史的意義から起きたものとはいえ、体制側にとってさらなる脅威に映ったことは間違いない。判決文にも、隈部は「創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ」たと、学会批判の動機について明確に記している。
丸山実著『「月刊ペン」事件の内幕』によれば、原田倉治が資本金1億で創刊した『月刊ペン』誌は、「創刊当時から自民党御用機関として機能していた」という。隈部は“御用機関”と化していたその『月刊ペン』(10月号)誌上で特集を組み、協定を厳しく批判したほか、76年1月号から12月号まで「連続特集 崩壊する創価学会」などのタイトルで学会批判を継続して掲載した。
なかでも3月号と4月号では、裏づけもないままに捏造スキャンダルを掲載。特に4月号では、「公明党議員として国会に送り込んだT子とM子はお手付きの情婦」などと書いていた。学会側は悪質な虚偽事実の適示ととらえて刑事告訴し、編集長の隈部は逮捕され、6月11日、起訴された。

 

山崎の「堕落」した生活

隈部らが告訴された76年当時、弁護士だった山崎正友は富士宮の墓苑などの件で業者と癒着したり、生活も乱れていたため、すでに学会首脳から信頼を失いかけていたという。そのため顧問弁護士の立場にいながら、「月刊ペン」訴訟の告訴代理人からも外されていた経緯がある。
妻子の住む自宅にも帰らず、毎晩のように銀座・赤坂を豪遊し、手帳にもホステスらとの約束がぎっしり書き込まれた“享楽的生活”に溺れていた。女性の家にしつこく電話をかけ、電話口で“変態的行為”に及ぶこともたびたびあったという。
一般に、山崎が信仰の道から外れだしたのは74(昭和49)年ごろからとされる。きっかけは、山崎が75年に静岡県の墓苑をめぐり土地転がしで多額の“黒い金”を懐に入れたことによる。土地転がしのためのダミー会社を設立したのもこの年で、10月にはホテルニュージャパンに個人事務所を開設した。
贅沢な生活を存続するため、副業として冷凍食品会社シーホースを設立したのは翌年のことだ。その後、同社の経営は乱脈を極め、“大型倒産”によって学会恐喝に至る。山崎がこのシーホースを設立したのと同じ時期に、問題となる『月刊ペン』誌が発売されたわけだ。
裏を返せば、「月刊ペン」事件が始まった当時、すでに山崎の行動には信仰者としての地道な努力の姿勢などなくなっていた。ひたすら自らの享楽を追い求める生活に堕落していた。その山崎がその後、「月刊ペン」事件に介入し、隈部を援助する形で、にせ証人を集め、“集団偽証”させるにいたる。“虚言”にほかならない証言が週刊誌上に大きく取り上げられ、社会に拡大されたが、そのことごとくが“ウソ”であったことは、判決文にも明白である。

 

でっちあげ報道の一連の流れ

戦後の池田名誉会長に関する女性スキャンダル報道なるものの経緯をみていくと、大きく四つの時期に分けられる。
最初は、1970(昭和45)年の『週刊新潮』メカケ騒動なる記事で、それ以前にはこのような捏造スキャンダル報道はなかった。さらに七六年の「月刊ペン事件」がつづき、その後、山崎による80年半ばからのメディア工作によって拡散された。“捏造スキャンダル”を内藤国夫に吹き込んで書かせ、さらに『週刊新潮』『週刊文春』をはじめとする雑誌に拡大させた。最後は、その延長線ともいえるが、96年に始まる『週刊新潮』の狂言キャンペーンである。
最初の『新潮』報道については、「月刊ペン」裁判で担当の週刊新潮記者が自ら証言して認めているが、まったく裏づけのない代物にすぎなかった。さらに『月刊ペン』記事も、真実性はなんら認められなかった。
影響を大きく残したのは、何といってもそれ以降である。繰り返しになるが、「月刊ペン」裁判の差し戻し審において山崎らが連れてきたにせ証人らの供述は、裏づけもないまま、週刊誌上で大きく取り上げられた。だが、裁判の判決では、「真実性」が認められなかったばかりか、「真実相当性」さえ認められなかったものばかりである。
差し戻し審の判決文では、隈部が再び有罪となった理由について、「結局のところ、本件適示事実については、いずれも真実証明がないことに帰する」と述べ、この裁判において、被告隈部とともに山崎らの“にせ証人”による証言では、なんら真実性が証明されなかったち結論づけたほか、真実相当性についても、「安藤情報(筆者注・隈部の情報源となった人物)は、真実性を信ずるに足る相当の根拠にはなり得ない」と、なんらの真実相当性も認めなかった。こうして当時、罰金刑としては“最高額”の有罪判決を受けたのである。
四期目の狂言報道にいたっては、「訴権の濫用」という極めて稀な結果で2001年に終結していることからわかるとおり、“虚言の典型”であったことが裁判上も明快に確定した。
つまり、30年余り続いた一連のスキャンダルなるものは、そのすべてが、根も葉もない“ウソ”であった。
それにしても、創価学会報道の歴史を通観するとき、『週刊新潮』のはたした役割は極めて悪質である。事実の裏づけが不確かでも女性スキャンダルであれば容易に飛びつく同誌の習性ゆえだが、そうした傾向を山崎は巧みに利用したといえる。
山崎の造反以降、「月刊ペン」裁判を「舞台装置」に“疑似イベント”(=偽りの出来事)は際限なくつくられていった。山崎も週刊誌も、「同じ人工合成物のおかげで繁盛した」(ブーアスティン)わけである。
メディア論の優れた古典的著作を残したダニエル・J・ブーアスティンは『幻影の時代』のなかで、疑似イベントの特徴について次のように定義している。
①疑似イベントは自然発生的でなく、誰かがそれを計画し、たくらみ、あるいは扇動したために起こるものである。
②疑似イベントは、本来、報道され、再現されるという直接の目的のために仕組まれたものである。疑似イベントの成功は、それがどのくらい広く報道されたかということによって測られる。
③疑似イベントの現実に対する関係はあいまいである。しかも疑似イベントに対する興味というものは、主としてこのあいまいさに由来している。
これらの定義がこれほど当てはまる事例もほかになかろう。一人の人物を30年もの長期にわたって狙い撃ちした“疑似イベント”は、日本の戦後報道史上、容易に見当たらない。後世のメディア研究においても、極めて興味深いテーマとなることは間違いない。
なかでもその中核となった「虚報」は、そのほとんどが当時“劣情”の虜(とりこ)となっていた山崎によるメディア工作の影響を受けたものだった。自らの「犯罪」を正当化させ、告発相手のイメージダウンを図るという「刑事被告人」の個人的意図から発せられた行為だったことを考えると、それにやすやすと乗せられた週刊誌メディアは、“犯罪協力者”そのものであった。(文中敬称略)