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人権・ジャーナリズム関連 執筆記事 1

【『月刊潮』2004年2月号】

「新潮ジャーナリズム」の罪と罰
史上最高額の賠償命令
「熊本保険金疑惑報道」にみる人権侵害の手法。

 新潮社の雑誌が断罪され続けている。わずか1年間で19件の敗訴、損害賠償額も累計6000万円にのぼるという。その背景には、無責任としかいいようのない取材体制とともに、売れるなら何を書いてもいいという身勝手な編集方針がある。中でも今回取り上げる熊本の事件は、近年まれにみる「悪質事案」だ。新潮社がどのようにして取材を行い、どのような「報道被害」を垂れ流してきたか、以下明らかにする。

■「世紀の虚報」のきっかけ
 「FOCUS」最後の編集長となった山本伊吾(57)は、自分がゴーサインを出して進めた取材がもとで、結果的に3000万円もの損害を会社(新潮社)に与えることになろうとは予想もしていなかったに違いない。まして複数の訴訟を引き起こし、雑誌休刊の一因になろうとは‥‥。
当時、『FOCUS』の3代目編集長に就いていた山本は、70年に新潮社入社後、週刊新潮編集部をへて、87年から『FOCUS』編集部に所属、5人のデスクと20人弱の記者たちと苦楽を共にしてきた。同氏は『週刊新潮』で連載コラムを長年執筆していた故山本夏彦の長男でもある。
 中沢慎一(31歳、仮名)もそのころ、山本の下で忙しい日々を送る取材記者の一人だった。
 中沢は97年に東京の有名私大を卒業後、新潮社に入社。最初に配属されたのが『FOCUS』編集部だった。
 新潮社では『FOCUS』にしろ、悪名高い『週刊新潮』にしろ、実戦の中で取材経験を積むのが伝統だ。最初は、取材してデータ原稿を書く。
 データ原稿とは、最後に原稿をまとめるアンカーのために用意する素材原稿のことだ。4〜5年この経験を積むと、最終原稿を書かせてもらえる立場に「昇進」する。
 中沢は当時、入社4年目の28歳。取材した内容をデータ原稿にまとめる仕事を日々こなしていた。
 『FOCUS』は写真週刊誌の草分けとして、一時は200万部の大部数を誇ったこともある。だが、この頃すでに30〜40万部に低迷。毎回赤字を垂れ流しては、“兄貴分”たる『週刊新潮』の利益がそのまま“弟分”の『FOCUS』が食い潰すという、いわば“お荷物”的存在になっていた。
 『FOCUS』の発売日は水曜日だった。日曜が最終締切りで、月曜にはすべての校正作業を終えてしまう。そのため、校正作業を終えた月曜には、すぐに次週発売号のための編集会議を行う段取りとなる。その日もそうした会議が行われていたが、中沢の心には一つの企画案が浮かんでは消えていた。
 話を聞いたのは半月ほど前にさかのぼる。ある殺人事件の取材で保険関係者を取材していたとき、たまたま雑談のなかで出てきた話だった。
 なんでもギネスブックなみの事件が起きていて、業界内で話題になっているという。2000年5月下旬、熊本県で4人が死亡する交通事故が起きた事件で、保険総額が50億円にものぼり、一般の交通事故ではおそらく世界一の額だろうと耳にしていた。中沢にはこの事件のことが頭から離れなかったが、別の取材に追われ、肝心の調査には取りかかれないでいた。
 7月になり、中沢は編集長の山本に相談を持ちかける。正式な「編集会議」の場ではなく、会議が終わったあと個人的に打診してみたにすぎなかった。当時の中沢にとって、「金額が大きい、事故の形態が不自然というだけで記事として成立するかどうか自信がもてなかった」(法廷での証言)という。その予感はある意味で正しかった。
 だが、編集長の山本は、中沢の提案に「すぐ取材に行け」と指示を下す。「金額そのものにニュース価値がある。記者としてそれに気がついていないのは駄目だ」。中沢が後で山本から聞かされた言葉である。
 以後、中沢の熊本への出張取材は夏から秋にかけほぼ毎週のように続いた。
 これが7月26日号を皮切りに、『FOCUS』誌上で12週にもわたってトップ記事や準トップでセンセーショナルに扱われた巨額保険金殺人事件報道の始まりだった。
 『FOCUS』が“火付け役”となったこの“スクープ”は、その後『週刊新潮』をはじめ、『東京スポーツ』や『文藝春秋』も後追いすることになり、いずれも「敗訴の山」を築いた。このスクープは、いわば“世紀の虚報”となった。
 発信源となったのが、新潮社発行の『FOCUS』だったが、それから1年後に同誌が休刊を余儀なくされことなど、当時、だれが予想していただろうか。

■事故を「事件」にデッチ上げる
 事件は2000年5月28日(日曜)の午後2時ごろ、熊本県天草町の海岸沿いの町道で起きた。医療法人(熊本市)の理事長夫人(当時61)と看護婦ら女性4人を乗せた自家用車が、わずか2・5メートルのガードレールの隙間から80メートル崖下の岩場に転落、全員即死した。
 現場は、地元では「日本一」ともいわれる見事な眺望で知られ、4人は社員旅行の下見を兼ねて当地を訪れていた。理事長夫人を除く3人の看護婦らは、いずれも病院の総勢300人もの看護婦を束ねる看護部長であり、病院の幹部だった。
 この日、朝9時半に熊本市内の同病院前を出発した車両は、12時45分に現場そばの西平椿公園に到着。理事長夫人の手作り弁当で昼食をとったあと、現場を通りかかった。運転していたのは看護部長の一人である。
 その日の予定では、4人は夕方には病院に戻り、決算事務で忙しかった理事長(69)らと合流し食事をとる約束になっていた。だが午後5時になっても、いつも必ず連絡を入れる4人からは何の連絡もない。携帯電話にかけてもどれも電話音が鳴り続けるか、留守番電話になるだけだった。異変を感じた理事長は、警察に捜査を依頼。日付が変わった深夜午前1時半、地元の警察署員によって転落事故が発見されたのである。
 『FOCUS』記者の中沢と桜井亮太(31歳、仮名)がペアになって取材に入ったのは、事件から1カ月半がすぎた7月13日のことだった。
 桜井は当時、女性週刊誌などをへて『FOCUS』編集部で働いていた専属記者で、年齢は中沢と同じ、取材経験もほぼ同程度だった。このときの桜井は、中沢の“応援”である。
 その日、中沢はこの事件のネタ元となった保険関係者に再取材をかけ、熊本入りした。すでに到着していた桜井と市内で合流、打ち合わせを行った。
 翌日、中沢は県立図書館で関連の新聞記事などを収集、一方の桜井は片道3時間かかる現場へレンタカーを走らせて現地取材を敢行、事故処理にあたった警察署などへの取材を終え、夜になると熊本市内へ戻ってきた。
 桜井の話によると、事故現場にはカーブミラーが設置されており、直線道路と勘違いすることはないという。現場は、約100メートルの直線が続き右に急カーブする場所だったが、事故車は右にハンドルを切ることなく直進、“死のダイビング”を行っていた。
 翌日、2人は遺族への取材を予定し、記事にするかどうかはその上で判断することにした。だが、遺族の取材を終えて編集部に報告すると、その週の号で記事にすることが決定される。「怪!『保険金50億』 熊本病院オーナー夫人の交通事故死」と題する最初の記事の掲載号(7月26日号)が発売されたのは、7月19日のことだった。
 その週、中沢らは初めて、病院の看護婦らに直接取材を行うことになる。そのとき聞き取った内容が、この事件をさらにセンセーショナルに演出することになる。
 だが、確たる裏づけをとることのできない、いずれもうわさ話の類いにすぎなかった。彼らはこれらをデータ原稿にまとめて東京に送信したが、受け手となったデスクらはそれらが裏づけあるものかどうかの十分な確認さえ行わないまま、売らんかなの記事をつくり続けたのである。
 たとえば、理事長は亡くなった3人の看護部長とそれぞれ男女関係にあったとか、理事長が株で巨額の赤字を出した穴埋めをするために彼女らに命じて事故死させたかのような記事が12週にもわたって延々と続いた。
 事実、夫人を筆頭に大病院の幹部である彼女らには巨額ともいえる保険がかけられていたが、それらはいずれも「法人保険」であり、いわゆる一般の生命保険とは意味合いが異なる。また、受取人も医療法人名義であり、巨額な収益をあげていた同法人としては、節税目的の保険加入でもあった。
 だが、冒頭の取材開始時の編集長の意図からもわかるとおり、『FOCUS』は保険金の額だけに着目し、この事故をあくまで「事件」として扱い、長期キャンペーンを続けた。その結果、病院は経営において入院患者が激減、職員が退職するなどの打撃を受けたほか、理事長はじめ関係者は想像を越える心理的苦痛を経験した。
 当然ながら、医療法人と同理事長は新潮社に対し、同年9月、約5億5000万円の損害賠償と謝罪広告などを求めて東京地裁に提訴した。被告となったのは新潮社(代表・佐藤隆信)のほか、「FOCUS」編集長の山本伊吾、実際に取材に当たった中沢慎一、桜井亮太である。
 結果は、新潮社の“惨敗”で終わった。2002年4月の一審判決では、新潮社ら被告に対して計1320万円の賠償を命じた。同年10月の二審判決でも、東京高裁は1980万円という名誉毀損としては史上最高額の賠償を新潮社に命じた。
 加えて7月には、刑事告訴分にからんで、新潮社の佐藤隆信社長ら関係者が警視庁牛込署により書類送検されるという、異例の経過をたどった。

■「裏づけなし」の誤報連発
 この事件の裁判記録に目を通したが、そこで判明したことは、この「虚報」を支えた裏づけは、ほぼなきに等しいという現実であった。訴訟になれば負けるのは当然ともいうべき極めて杜撰な内容であった。
 事実、活字を中心とする新聞社など一般マスコミは、このような報道は行っていない。根拠なき「虚報」に加担したのは、出版社系の媒体や一部テレビ局であり、その“先導役”を担ったのが新潮社の『FOCUS』だった。
 中沢記者らが同病院の看護婦らに直接取材したのは7月21日のことだったが、裁判ではこのときの取材が大きな焦点になった。なぜなら看護師ら(匿名)から聞き取った取材内容が、同誌連載の中核を占めたからだ。
 そこでは理事長と亡くなった看護部長らが男女関係にあるのは「公然の秘密」だったとか、病院のために死んでくれと言われてアクセルを踏み続けた心中だと思う、などの証言が得られたという。だが、裁判の尋問では、肝心の裏づけを示すことはほとんどできなかった。例えば、男女関係の立証では次のような展開だった。

 代理人 ほんとうにそのような証言者がいたのか。
 中沢 はい。
 代理人 あなたが信じた根拠は。
 中沢 それは目の前でお話になっておられると。
 代理人 それ以外、ないのですか。
 中沢 ‥‥‥

 一方、証人として出廷したデスクも、「僕は裏取りはしていません」(酒井逸史)などと無責任な態度に終始した。
 要するに看護師らは、そのような男女関係の現場など直接見たこともなく証拠もない。つまり、裏づけのとれていないうわさ話を、30万部もの発行部数の『FOCUS』は意図的に「活字」にし続けた。
 それは「事故」を「事件」に仕立て上げたい同誌にとって、不可欠な行為だったのかもしれない。だがその結果、“被害者”が“加害者”に陥れられるという最悪の結果を招いた。
 さらにまずかったのは、このとき取材を行った中沢や桜井が、目の前の看護師らが、ほんとうにその病院の関係者であるかどうか身分証明書などによる確認さえ行っていなかったことである。
 裁判では、看護師の名前はおろか、数さえ明らかにしていない。だが、2人が書いたデータ原稿はそのまま東京の編集部に送られ、アンカーマンがデータ原稿を「真実」とみなして記事化し、編集長らが見出しをつけるという“無責任なシステム”のもとで続けられた。
 この虚報直前に『FOCUS』担当役員となっていた松田宏は、自ら編集長を兼務していた『週刊新潮』でも同じネタを取り上げ、これも裁判ざたに。この裁判でも熊本地裁は新潮社に対し、990万円の損害賠償を命じた。2004年1月末には福岡高裁で2度目の「断罪」がなされる予定だ。
 “弟分”の「暴走」に“兄貴分”も追随した結果、この事件だけで、新潮社は計3000万円もの損害賠償を命じられることになった。それでも医療法人が受けた「報道被害」に比べれば、微々たる額であろう。
 『FOCUS』はこのキャンペーン開始から約1年がすぎた2001年7月3日、担当役員の松田宏らが突然記者会見を行い、同誌の「休刊」を発表、8月8日発売号を最後に20年の歴史を閉じた。
 皮肉なことに、それから間もない7月26日、「転落死事件」は、熊本地方検察庁によって「運転者の注意義務を怠った結果による事故」と認定され、不起訴処分で決着した。
 “虚報取材”にゴーサインを出した山本伊吾は現在、同社の法務担当部長として訴訟関連の後処理に終われる日々という。(文中敬称略)

※山本伊吾氏は2003年末、新潮社を退職したという。

 
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