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ジャーナリズム関連 執筆記事 4

【『月刊潮』2004年11月号】

戦後史における「創価学会報道」の謀略性@

希代のペテン師・山崎正友が仕掛けた「日本版」マッカーシー旋風――。
“煽動者”と結託した出版マスコミの罪。

■“正義の告発者”を装った詐欺師
 戦後の「創価学会報道」を検証するにあたって、どうしても言及せざるをえない一人の人物が存在する。その男は“依頼主を恐喝して資格を失った元弁護士”として世に知られるが、この人物が行ったマスコミへの煽動工作の影響は、20数年すぎた現在も、わが国の創価学会報道に深刻な影を投げかけている。
 この男、山崎正友(67)は弁護士業のかたわら、自らの“道楽”で始めた会社経営が1980(昭和55)年に頓挫。借金取りに追われ、顧問先だった創価学会を恐喝し、弁護士資格を失ったいわくつきの人物である。
 だが、この人物の本質は一言で済ませられるような簡単なものではない。顧問先の学会から報酬をもらうかたわら、陰で外部の反学会派と手を結び、学会を訴えるよう働きかけて援助するなど、およそ弁護士とは思えない“悪辣ぶり”を発揮してきた。“虚業の崩壊”も取込み詐欺を狙った用意周到な“計画倒産”であり、多額の手形詐欺を行ったとの確かな証言が存在する。
 そもそも依頼主を恐喝するという、およそ弁護士の職業倫理に反した犯罪行為に対し、罪を認めて改心するどころか、逆にそれを奇貨として利用し、“正義の告発者”として世に売り出した男である。本来が通常の人格になしうる行為ではない。
 「恐喝」や「正義の告発」にあたって有効な道具となりえたのは、顧問弁護士として知りえた守秘義務を伴う情報や、酒と金で手なずけた手下に聖教新聞社から盗み出させたダンボール13箱もの内部資料である。山崎はこれらを使い、目ぼしをつけたマスコミ人に工作をしかけ、手玉にとっていった。
 当時、山崎にとっては、自分が社会的に“正義の告発者”に映ることが不可欠の条件だったといえる。司直の手から逃れる唯一の方法と思えただけでなく、自らの本性が明らかになってしまえば、職業人生を失いかねないとの切迫感が大胆な行動に走らせた。
 その意味でも、山崎が“正義の士”として自身を売り込むには、創価学会のシンボルともいえる指導者・池田名誉会長の人格を貶め、そのことによって、自らの立場を相対的に引き立たせることが必要だった。
 このころ山崎の手によって世に出てきた名誉会長の女性スキャンダルなる話も、名誉会長の世間的印象を“失墜”させることで、自らの告発をより優位に立たせようとする特定の意図から発せられたものだった。虚偽情報に基づく“情報操作”の典型といえるが、これらの“作り話”はいずれも司法の場で明確に断罪されてきた。
 名誉会長の世間的な信用を貶めない限り、自らの「正義の告発」は“空砲”に終わってしまいかねない。そのためには女性関係を捏造することが最も効果的と判断した。自らの“仮面”を剥がされる前に、マスコミを使って物量を伴った“宣伝戦”で勝利を目指したことは明白である。その際、マスコミに提供する情報が事実かどうかなどまったく関係なかった。
 いまも形をかえて続くこの種の報道は、もとはといえば山崎が垂れ流し、多くの出版メディアに取り上げさせてきた報道の集積から起きるものなのである。
 戦後のメディア史において、一人の人間によってこれほど長期にマスコミ工作が行われ、国民意識に深い影響を与えた事例は珍しい。

■煽動と策謀に“結託”したメディア
 後述するように、山崎は、世にもまれな能力をもつペテン師であった。そこにあって、売れればよしとする構えの雑誌メディアは、無防備すぎたとさえいえる。その証拠に、新聞メディアは山崎の“煽動”にほとんど耳を貸さなかった。『邪智顛倒』(北林芳典著)によると、当時、山崎は「新聞社としては朝日新聞社、出版社としては文藝春秋、政党としては日本共産党を創価学会批判に立ち向かわせようとした」というが、この策謀に、朝日新聞は加担しなかった。マスコミで加担したのは、多くが週刊誌をはじめとする雑誌メディアである。
 文藝春秋、新潮社、講談社、小学館などの出版社が発行する雑誌だった。事実、その頃、山崎関連記事の掲載号は、いずれも大きく売り上げを伸ばしたという。背景には、創価学会が社会的影響を持ち発展した半面、その実態が社会であまり知られてこなかったことがある。そうした社会環境に乗じて、山崎は暗躍する「土壌」を持ちえたのである。
 その後、学会については“裏をとらなくてもよい”“みんなで渡れば怖くない”といった悪しき風潮が生まれた。そうした創価学会報道の“歪み”は山崎によってもたらされたといってよい。この傾向は最近まで、四半世紀にわたり続いてきた。ジャーナリズムの生命線ともいえる“事実を伝える行為”が長らく疎かにされてきたわけである。
 近い例としては、『週刊新潮』が九六年に開始した狂言夫婦を使った“捏造キャンペーン”が挙げられる。山崎の裏工作が垣間見えたが、「謀略」は失敗に終わり、完膚なきまでに砕け散った。

■学会批判の“二度のピーク”
 ここで出版社系週刊誌の中で最も古い歴史をもつとされる『週刊新潮』を例にとってみよう。同誌が創刊された1956(昭和31)年以来、50年近い歳月の中で学会報道をどれくらい行ってきたか。
 本誌の調査によると、掲載号の総数は、累計400号を超える。通巻2460号余りなので、平均すると10冊に1・5冊のペースで学会問題を取り上げてきた計算になる。これは単純に平均化した数字にすぎないが、分布を見るとその“偏りぶり”が一層明らかになる。
 同誌が学会報道に使った総ページ数は累計1300ページを超えるが、うち半分は、特定の一時期、さらにいえば“2度のピーク”に集中する。
 最初の山は、1980(昭和55)年から84(昭和59)年にかけての5年間で、総ページ数の2割に当たる260ページが使われている。さらに、2度目の山として93(平成5)年から97(平成9)年までの5年間に、3割にあたる413ページが費やされている。つまり全体の2割にすぎないこれら10年間に、同誌の半世紀にわたる学会報道の「5割」が集中しているのである。
 賢明な読者であればおわかりだろう。一回目のピークである80年から84年がどのような時期であったか。
 77年から始まった宗門問題の余燼から79年に池田会長が勇退。翌年4月、山崎が経営していた冷凍食品会社シーホースが40数億円もの負債を抱えて倒産。返済に追われた山崎が学会を恐喝した時期に重なる。マスコミ工作を活発化させ、“社会の公器”を恐喝の道具にも使った。
 もともと、週刊誌による学会キャンペーンが始まるのは77(昭和52)年とされる。最初に火をつけたのは、『週刊新潮』と『週刊文春』だったが、その後、『文春』のキャンペーンのみが本格化。78年秋以降は『週刊ポスト』も参入し、『新潮』は取り残された格好となっていた。『新潮』が学会バッシングを本格化するのは80年からである。
 仕掛人はいずれも山崎だったが、学会は同年6月、この男を恐喝容疑で刑事告訴。報復の意図もあってか、山崎は直後に『週刊文春』に覆面の連載手記を開始した。連載期間は覆面・実名を合わせ、33週の長期にわたった。その後も「二部」「三部」と告発手記なるものを重ねたが、ここで述べられた山崎の主張はほぼすべての回に虚偽をまぶしたものである。
 80年から82年までのわずか3年間に、『週刊文春』に山崎が掲載した手記の総量は、延べ46回、350ページにも及ぶ。おそるべき“マスコミ・ジャック”といえよう。当時、山崎が文藝春秋とのつながりをいかに重視していたかがわかる。
 山崎手記の特徴は、自分の行った犯罪的行為を、そのまま学会がやったかのように逆にかぶせるという手法である。しかもそれを早く言ったものが勝ちといった、先手必勝を目指した方法だった。
 当時、山崎の影響を受けた主要メディアは『週刊文春』のほか、『週刊ポスト』『週刊新潮』『週刊サンケイ』『現代』『諸君!』などがある。当時取材にあたった奥野史郎氏の『悪業の巣』によれば、山崎の情報操作に利用されたと思われる雑誌・新聞数は少なくとも19誌紙にのぼり、登場回数は100回をこえていたという。さらに、『週刊新潮』における二つめのピーク、93年からの5年間は、言うまでもなく、公明党の与党入りに端を発している。
 この年、刑期を終えた山崎が仮出所すると早速手記を掲載させたのは『週刊文春』ではなく、『週刊新潮』だった。同誌は80年代だけでなく、90年代半ばを過ぎた以降も“捏造”スキャンダルなど多くの虚偽報道を繰り返し、学会攻撃の“確信犯メディア”として役割を果たしてきた。
 他方、『週刊文春』も、最初は山崎造反の80〜81年を第一次ピークに、2度目の山は、『新潮』よりやや早い91年前後に訪れる。第二次宗門問題を背景に、「宗教団体を取り上げれば、大勢の信者が買ってくれるかもしれない」と考えた花田紀凱編集長(当時)の方針が大きく影響している(在任期間は、88年7月から94年4月)。
 花田氏は自著で「実際、昔は『創価学会ものをやれば、売上げが伸びる』と言われていた時代もあった」と書いているが、同誌はこの時期、売上を急速に伸ばし、“悲願”であった老舗ライバル誌『週刊新潮』の部数を抜いている。その状況はいまも変わっていない。

■マッカーシーと山崎正友の共通性
 山崎のような“煽動者”の事例は、世界的には、米国におけるジョセフ・R・マッカーシー(1908〜57)などに見ることができる。“米国の最初の全国的煽動政治家”あるいは“米国が生んだ最も天分豊かなデマゴーグ”といわれたマッカーシーが、上院議員だった1950年、ウィーリング(ウエストバージニア州)という場所で、国務省にいる205人分の共産主義者のリストを手にしているとの“爆弾演説”を行なった。以来、4年に及ぶ“マッカーシー旋風”が吹き荒れることになる。
 マッカーシーは思いつくままに嘘をついた。「205人」といった最初の数字はその後、「81人」「57人」「多数」と変わっていったが、マッカーシーは数字をあげる以前に嘘をついていた。そもそもリストなど持っていなかったのである。演説の際に掲げたリストなるものも、実は何の関係もない紙切れにすぎなかった。
 その上で、無実の人々を国会に召喚し、“査問”を手がけた。いまとなっては“冷戦の副産物”ともいえる現象であったろうが、東西冷戦下においてスパイ事件が続発し、動揺する国民心理につけこむ形でマッカーシーは登場した。米国社会においてさえ、時流に乗じ、このような嘘つきがまかり通った時期がある。
 彼は一時期、大統領に匹敵する権勢を誇り、多数の良心的・進歩的分子が政府部内だけでなく、芸術・映画などの分野で追放された。当時、この問題を取材したジャーナリスト、R・H・ロービアは『マッカーシズム』(岩波文庫)にこう書き残している。
 「マッカーシーは確かに嘘つきのチャンピオンだった。かれは思うままに嘘をついた。恐れることなく嘘をついた。白々しい嘘をつき、真実に面と向かって嘘をついた。生き生きと、大胆な想像力を用いて嘘をついた。(中略)トマス・グリフィスは『その墓の墓碑銘にはただ「この男に真実はなかった」と書くがよい』と書いた」
 さらにこう指摘する。
 「マッカーシーは多くの人びとに、この男は大切な真実を語っていると思いこませた。かれはうずまく雲のような大量の煙をもくもくわき上がらせたので、異常にだまされやすいとはいえない多くの人びとが煙の下には火があるに違いないと信じるようになった」
 マッカーシーは米国政治の一時期を席捲したが、注目すべきは、彼がマスコミ利用に“並外れた才能”を発揮したという点にある。
 『マッカーシズム』には次のくだりがある。
 「パブリシティ(マスコミ利用)にかけては彼は今世紀のいかなる政治家に及ばない才能を持っていた。あるいは、本能といってもよかった。とにかく、マッカーシーはパブリシティが何から成り立っているかを――この貴重な物の肌ざわりまで知っていた。彼は新聞記者を知り、新聞記者がいつどのように仕事をするか、何を欲しがっているか、締切り時間はいつか、なにが記事の『頭』にくるか、なにが『翌日まわし』になるか、なにが『側面記事』になるかを知っていた。自分に不利な記事を『おさえ』たり『もみ消したり』するコツも心得ていた」
 マッカーシーは事件を作り出せないときでも、無から記事を生み出す方法を知っていたという。米国文明史家のダニエル・J・ブーアスティンが書いたメディア論の古典的名著『幻影の時代〜マスコミが製造する事実』によると、マッカーシーは「ニュースとなるような出来事を創造することにかけては、生まれながらの天才であった」という。さらにこう書く。
 「ニュースに飢えた新聞記者にとって、マッカーシーは悪魔的な魅力と、ほとんど催眠術的といってよいほどの力をもっていた。新聞記者は、彼のおかげで記事が書けたので、いやいやながらも感謝していた。かくも少しの材料から、かくも大量のニュースを作り出すマッカーシーの手腕に驚嘆した。(中略)マッカーシーも新聞記者もともに、同じ人工合成物のおかげで繁盛したのである」
 煽動者と自らの役割を失ったメディアが結託するとき、「偽りの事実」がマスコミによって“製造”されるというわけだった。
 ほかにも、「彼は魅力たっぷりの男であった」「とても愛想がよかった」「猥雑汚猥な言葉の名人だった」「本能的にも低俗人種であった」「自分がひき起こした騒動を平然と観察し、楽しんでいる」などの記述(『マッカーシズム』)は、いずれも山崎の性質と共通するものである。
 R・H・ロービアは、マッカーシーについて次のように喝破している。
 「自らの罪をかくも俊敏に他者に帰属せしめる罪人の例を私は他に知らない」
 まさしく、山崎正友の≪本質≫を言い当てた言葉とさえいえる。

■「内藤ゲラ」が恐喝の道具に
 山崎が具体的にどのように記者に接したか、詳らかにしておきたい。
 80年ごろのこの時期、山崎に踊らされた記者を挙げるとすれば、その筆頭には、元毎日新聞編集委員の内藤国夫(故人)、さらに『週刊ポスト』記者だった段勲などが挙げられよう。
 山崎の文春手記(81年1月15日号)によると、内藤と最初に会ったのは、79年11月2日という。彼の書くところ次のようになる。
 「それより5日前、内藤氏から私の事務所に、電話で取材申し込みがあった。いろいろと考えた末、私は取材に応じることにし、11月2日、午後1時半より、赤坂東急ホテル14階のゴンドラで、2時間ばかり会った。このとき、私は、開口一番、内藤氏に対して、内藤氏がその前年に月刊『現代』に書いた学会問題レポートの中で、私について、事実と違うことを書いて批判しており、しかも、私に直接何の確認もしなかったことを非難した」
 山崎の内藤工作はすでにこのとき始まったようだ。さらに2回目は、内藤の取材申入れにより、11月20日、毎日新聞社9階のレストラン・アラスカで会ったとする。
 その後山崎の仲介で、内藤国夫は池田名誉会長のインタビューを10年越しに実現。レポートは『現代』(80年4月号)に「池田大作名誉会長 全疑問に答えた8時間」と題し、鳴り物入りで掲載された。
 このとき山崎は内藤に対し大きく恩を売った格好となった。その後、山崎は内藤を取り込むことに成功。80年4月、山崎の学会恐喝が既遂となった後、2回目の未遂事件では、内藤の『現代』ゲラ(7月号)がその際の“道具”として使われた。
 この『現代』記事の中で初めて、山崎は名誉会長の女性問題なるものをデッチ上げて内藤に吹き込み、さらに宮本宅盗聴事件の学会関与説をゲラに盛り込ませたのである。山崎はこのゲラを入手し、学会首脳を脅したのだった。『現代』(7月号)の発売日は6月5日であったが、同じ日に発売された『週刊文春』『週刊新潮』(6月12日号)にも山崎はゲラを流して同時掲載させている。
 この3誌から初めて、荒唐無稽な女性スキャンダルなるものが、出版マスコミ誌に公然と掲載される流れが出来上がったのである。マスコミの良識としての堤防が“決壊”した瞬間だった。
 その意味でも、「80年」は日本のメディア史上、重要な年として記録される。背景には、山崎の学会恐喝という、個人の犯罪行為が深く関わっていた事実を見逃してはならない。要するに、山崎という一詐欺師が、自分の身を守るために発した“虚偽情報”にほかならなかった。

■踊らされた記者たちの“罪”

 このとき山崎は『文春』『新潮』の2誌だけでなく、『週刊ポスト』にも
情報を流していた。窓口となったのは当時、日蓮正宗の活動家僧侶を兄にもつ、元創価学会員の段勲であった。『週刊ポスト』の6月13日号に掲載された宮本宅盗聴事件に関する記事は、まさに山崎によって流された情報である。
 当時、山崎は、学会と日蓮正宗の離間工作を進めるなかで、活動家僧侶との密接なパイプをつくっていた。その関係で段と知り合ったものと思われる。『週刊ポスト』は78年秋から学会キャンペーンを毎週のように始めていたが、段もこのとき取材記者として飛び回っていた。
 山崎は79年9月、聖教新聞社から多くの内部資料を盗み出したが、その内部資料を徐々にマスコミに流していった。段が晩声社という小出版社から80年7月に発刊した『創価学会・公明党の研究』なる書物は、まさしくそうした資料を寄せ集めてできたものである。一説には、『ポスト』誌で宮本盗聴事件を記事にした段勲と左翼系出版社の晩声社社長が、山崎を「赤旗」記者に仲介したとされる。当時、衆参ダブル選挙の直前でもあった。
 党機関紙「赤旗」の一面に、「宮本委員長宅電話盗聴事件」なる記事が登場したのは、選挙のわずか3日前のことである。
 山崎の頭には、選挙の直前であれば、共産党は必ず飛びついてくるとの確かな予測があったことは間違いない。“党利党略”が顕著な日本共産党だけに、山崎が垂らした釣り針になんなく食いついたのである。
 山崎は、内藤を誑し込んだことで、その後の情報操作が非常にやりやすくなった。それなりに名前の通ったジャーナリストであったし、なおかつ、文藝春秋に東大の同期生の親友をもつなど、利用しがいがあった。だが、山崎の手記などを吟味することなく『週刊文春』や『諸君!』などに載せ続けた文藝春秋のかつての編集幹部はこう述べている。
 「取材もせずに山崎の文章を載せたことは間違いだった。率直にお詫びします」
 山崎の“煽動”に加担した罪を、いまは悔いていることは確かだ。
 ブーアスティンはこう書き記す。
 「新聞記者は、マッカーシーの最も強力な味方であった。なぜなら、彼らは彼と一緒になって、疑似イベントを製造したからである。新聞記者は自分で作った蜘蛛の巣にひっかかってしまった」
 ここでいう“疑似イベント”とは「偽りの事実」の意味である。マッカーシーを「山崎」に置き換えれば、「新聞記者」がだれを指すかは明白であろう。  (敬称略・以下次号)

 
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