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ジャーナリズム関連 執筆記事 14

【『月刊潮』2005年11月号】

戦後史における「創価学会報道」の謀略性J=最終回

週刊誌による「捏造報道」の系譜。

〜発刊から半世紀――週刊誌報道の本質は何も変わっていない。


学会報道の始まりと週刊誌の発刊
 戦中、神札を受けなかったことなどにより治安維持法による弾圧を受けた創価教育学会が、戦後、創価学会として再出発したのは1951(昭和26)年。当時、ほとんど世に知られない宗教団体の一つにすぎなかったが、その後、布教活動の活発さなどから社会的注目を浴びるようになり、いわゆる創価学会報道が始まっている。
 当初は主に新聞報道が中心だったが、教団への無認識からおこる見当外れの誹謗記事も多かった。「軍隊組織」「暴力宗教」など、草創期の組織編成に着目し、事実の裏づけなく安易に結論づける傾向が強かった。その傾向は、政治進出とともに強まっていった。
 1955(昭和30)年、創価学会は初めて地方議員候補を推薦し、政界に人材を送る(前年に文化部設置)。それ以降、学会に関する報道も増加していった。なかでも、初めて国会議員を輩出した1956(昭和31)年の参議院選以降、社会からの注目は一層高まった。
 例えば、創価学会を扱った単行本として最初のものと思われる『創価学会』(青木書店、1957年)には冒頭、次のような記述がある。
 「創価学会がひろく社会的注視をうけるようになったのは、昨年の参議院選挙以来のことである。それまでは、(中略)多少、興味本位にとりあげられていたにすぎない。従来、他の宗教が容易に入りえなかった組織労働者の社会に、どうしてこの宗教が入りこんだのか、等々の状況を解明することは、世間話の程度ですまされるものではなく、学問的にも重要な問題である」
 最初に国政進出した1956年の参議院選挙では、東京・大阪の各地方区に加え全国区に候補者をたて、3人の当選者(大阪、全国2)を出した。大阪地方区では、「“まさか”が実現」(朝日)と書かれたのは有名な話である。
 さらに1959(昭和34)年の参院選では、6人の候補者(東京、全国5)を“全員当選”させ、1956年の3人に加えて参議院だけで9人の陣容となった。当時、一般紙は、「創価学会は全員当選」「国会に新小会派 創価学会」(朝日)、「『安国』唱えた唯一の組織 創価学会進出の背景」(読売)、「“落選知らず”の組織」(日経)などと、驚きの様子で書きたてた。
 1962(昭和37)年、公明政治連盟を結成しての参院選では、改選3議席に対し、9議席(東京、大阪、全国7)を獲得。参議院において、自民、社会につづく“第三勢力”(15議席)へと成長し、独自の法案提出権も得た。公明党が結成されるのはさらに2年後の1964(昭和39)年だが、創価学会に対する社会的関心が、こうした政治支援による結果生まれた側面は否定できない。
 それらの背景には、日本人特有の宗教蔑視の感情、さらには政治参加への偏見も色濃く作用していたように見える。
 実際、90年代に入っても、公明党が与党入りした93年以降、週刊誌による学会・公明党報道は急増した事実がある。(本誌/2004年11・12月号既報)
 そのことは、戦後まもなく党分裂しながら“暴力革命”を志した日本共産党が、1955(昭和30)年に党を再統一後、最初に党機関紙『アカハタ』において創価学会に関する報道を行った時期が、学会が国政進出した1956年の参議院選挙の最中(6月28日)だったことにも表れている。
 当時の『アカハタ』は、「創価学会とは?」との見出しを付け、学会に関する興味本位な報道を行った。
 1956(昭和31)年当時の週刊誌といえば、『週刊朝日』『サンデー毎日』など新聞社系週刊誌が“主流”で、そこへ初めて出版社系として『週刊新潮』が参入した。採算面に問題ないことがわかると、『週刊文春』など他の出版社も続々と参入し、現在の形につながっていく。
 創刊まもないころの『週刊新潮』や『週刊文春』の創価学会報道を見てみると、80年代以降の同誌とは隔世の感があることに驚かされる。
 『新潮』の≪最初≫の学会報道と見られる記事は、「あなたを狙う新興宗教 創価学会のめざすもの」(1956年7月23日号)だが、その内容は当時の新聞報道のレベルと大同小異である。それでも、1962(昭和37)年になると、「和泉元憲兵准尉の当選まで 創価学会新議員のたどった半生」(7月23日号)と題する6ページの記事が一挙掲載されるなど、今と違って、むしろ週刊誌側の客観的な誌面づくりが印象に残る。和泉とはこの年、参議院東京地方区から公政連候補として初当選した和泉覚氏のことである。
 さらに1963(昭和38)年には、『週刊新潮』(1月21日号)が「週刊日記」と題する一週間の動静日記のコーナーで、池田会長(当時)を2ページにわたって取り上げたほか、それを追うように、『週刊文春』(2月25日号)も「この人と一週間」という同種のシリーズで、「折伏に生きる若き指導者・池田大作」と題し、5ページにわたり特集している。
 当時、新聞などにけっして無理解な報道が珍しくなかったなかで、むしろ出版系週刊誌がこうした客観的な報道スタイルをとっていた事実は、その後80年代半ばからの狂ったような“作為的報道”(=情報操作)と比較しても、あまりにも隔たりがあるといえよう。当時、学会問題を好意的に扱うと、売り上げが伸びると見られていた時期でもあった。

転機となった言論出版問題
 いま、筆者の手元に、1969(昭和44)年の『週刊文春』(12月8日号)の記事がある。タイトルは、「ことし出た“創価学会を書いた本” 話題を投げた空前の出版ブーム」――。この記事によると、同年は「創価学会関係の出版がアタリ年」とされ、「学会・公明党の本さえ出せばベストセラー疑いなし、と折紙つけられたほどの学会ブーム」の年だったという。
 そうした学会ブームにピリオドを打つことになるのが、同年末に始まる言論出版問題だった。そのとき、創価学会総攻撃ともいうべき“政治的包囲網”が形成されるが、“包囲網”を仕掛けた中心は、日本共産党である。そのことは、歴史の上からも明白な事柄だ。
 同党は戦後の“暴力革命路線”の誤りを反省したのか、議会重視の姿勢へと方針変更し、そのころ衆院初当選した「不破哲三」(本名・上田建二郎)を前面に押し立て、国会で執拗に追及した。党機関紙『赤旗』は、ここぞとばかりに連日、反学会・公明党キャンペーンを繰り広げ、売り上げを伸ばした。
 戦後まもないころ共産党員として同党の火炎瓶闘争に参加し、その後同党に愛想を尽かしたルポライターの竹中労は、このときの経験をこう書き残している。
 「率直にいえば、(※藤原)弘達氏の創価学会批判は、一場の“茶番劇”だった。(中略)いちばんトクをしたのは日本共産党であろう。宿敵公明党をコテンパンに攻撃し、いかにも自由と民主主義の擁護者であるような擬態を示して、党勢と機関紙を飛躍的に拡大した。(中略)日共は、いまや保守政権を直接ゆり動かす大勢力にノシ上がった」(『エライ人を斬る』/71年)
 その後、日本共産党は、70年代の民主連合政府樹立の目標を掲げ、党勢のもっとも強い時期を迎える。
 さらに、1975(昭和50)年、「創共協定」も週刊誌の格好のネタとなったが、週刊誌上における意図的な学会報道が始まるのは77(昭和52)年から。主な舞台は、『文春』『新潮』『ポスト』などの出版系主要誌であった。

「戦後最大の情報操作事件」
 このころ、新聞と週刊誌の役割は大きく逆転する。従来の新聞社系週刊誌は伸び悩み、センセーショナルな見出しで読者の興味を引く手法で、出版社系週刊誌が売り上げを伸ばしていった。新聞と同じことをしていても売り上げ増にはつながらないと考えた週刊誌は、新聞がやらないような企画、テーマを重視するようになる。その結果ともいえようか、創価学会「批判」報道は、当時、出版社系週刊誌の土壇場となっていった。
 さらに歴史の巡り合わせか、時期を同じくして、元弁護士・山崎正友の“黒い策動”も始まる。『週刊新潮』元次長の亀井淳氏は、当時のことを次のように記している。
 「77年夏から始まった“反創・反池田”キャンペーンは、一つのきわだった特色をもっている。それは山崎正友という一人の“ユダ”が、一流とされる週刊誌・月刊誌数誌をリーク(意識的漏洩)によって誘い、まる5年以上のキャンペーンを組織したという空前の事実である。ジャーナリストの立場からみると、これは戦後最大の情報操作事件であり、マスコミの主体性の大きな危機であった」(『「週刊新潮」の内幕』/83年)
 「まる5年以上」と亀井氏が書いた山崎によるリークは、その後、90年代に入っても頻発したことを考えると、実際は「20年近くにわたり続いた」といってよい。まさに“空前の事実”である。同氏はさらに記している。
 「『週刊新潮』は数誌が砲列をそろえた反創キャンペーンのうち、最もスキャンダラスでセンセーショナルな部分を受け持つことになった」(同)
 その際たるものが、山崎のリークを情報源とする「内藤国夫」らによる“学会スキャンダル報道”の始まりである。時あたかも、80(昭和55)年6月の衆参ダブル選挙にあわせ、サイは投げられた。内藤はすでにこのころから、山崎の「マイクロフォン」(拡声器)としての働きを始めることになるが、当時、選挙中の意図的報道などが原因で毎日新聞社の退社を余儀なくされている。
 加えて、山崎は差し戻しとなった「月刊ペン」裁判を最大に利用し、証人をでっち上げ、内藤らにいいように書かせた。さらに、『週刊新潮』などは「月刊ペン」裁判をセンセーショナルに脚色して報じ続けた。
 このころ、内藤と同様の働きをしたマスコミ人として、“転び左翼”などと批判された「溝口敦」、山崎と密接に行動した日蓮正宗坊主の弟である「段勲」などがいる。
 月刊ペン裁判は、差し戻し審においても、83年、84年と、当時の名誉毀損による最高の罰金額で“有罪”判決を受け、記事の真実性は否定された。『創価学会問題とジャーナリズム』の著書をもつ、文芸評論家の岡庭昇氏は当時こう記している。
 「それにしても、これだけ大がかりな組織的キャンペーンが長年展開されているのに、すべての知識人たちは沈黙を守っている。そのなかには、しばしば強くマスコミへの関心を示し、他のケースなら黙っていそうにない人々も多く含まれている。創価学会に関わることは、ほんのちょっと発言しただけでも、決してトクではないのだろう。知識人は、ことのほかソントクに敏感な生き物なのである」(同/83年)
 山崎らの仕掛けた“意図的キャンペーン”に対し、多くの知識人が沈黙、“作られたスキャンダル”は、一方的に拡散された。
 当時、裏で騒いだ山崎も、80年に3億円恐喝事件を起こして切羽詰っていた。逮捕に脅え、ホテルを泊まり歩いて、その日暮らしを送っていた。結局、91年に懲役3年の実刑判決で服役することになるが、その刑事裁判でも50回以上にわたってウソを並べ立てており、山崎本人の胡散臭さは“公然”のものとなっていく。それにともない、内藤の信用も失墜していった。
 構図は単純、自らの過ちによって創価学会に恨みを抱いた者たちが架空のスキャンダルをつくり立て、それを吟味せずに週刊誌が取り上げつづけたのだった。古来、偉人などの社会的生命を抹殺しようとするための“常とう手段”ともいえる。
 だが、90年代に入っても、意図的な報道はなおもつづいた。後述するが、信平狂言事件はその最たる事例であろう。
 一方、こうした週刊誌とは対照的に、当時の新聞ジャーナリズムは、努めて冷静な姿勢を保っていた。朝日ジャーナル元編集長の和田教美氏は、新聞社の担当デスクの次のような言葉を紹介している。
 「われわれの態度は、最初から学会をつぶすとか、池田名誉会長の追い落としをめざすとかいった、『反学会グループ』の構えとは基本的に違っており、キャンペーン的なものをやるつもりは、はじめからなかった。今後も(※山崎)事件の展開に即し、事実関係をよく調べて公正な報道をつづけるという態度に変わりはない」(『創価学会問題の真実は何か』/81年)
 和田氏は、山崎起訴などをめぐる新聞報道は、「一部週刊誌に比べれば、はるかにバランス感覚をもつ、自主的な編集態度」と評していたが、実際、当時の新聞と週刊誌を読み比べてみても、そのことは一目瞭然である。
 一方、96年から始まった信平信子・醇浩夫婦による“狂言訴訟”は、司法史上、100万件に一件あるかどうかといわれる「訴権の濫用」で“却下”され、2001年、最高裁で確定した。
 判決文によると、「本件訴えは、その提起が原告の実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするものではなく、被告に応訴の負担その他の不利益を被らせることを目的とし、かつ、原告の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しいものであり、このことから、民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反するものと認めざるをえない」という理由であった。
 一言でいえば、民事訴訟制度を利用して「ウソ」をもって行った、事実無根の“嫌がらせ裁判”にすぎなかったということだ。
 だが、そうしたウソ裁判を起こすことによって、それをあたかも客観報道のように“偽装”して世に振りまいたのが、『週刊新潮』を筆頭とする週刊誌メディアだった。

創価学会報道は変わったか?
 一年前、この連載を始めるにあたり、「戦後史における」と銘打ちながら、戦後史の半ばにすぎない、1980(昭和55)年を基点にスタートしたのは理由があった。現在の創価学会報道に続く流れは、まさにこの時期に形成されたものであり、その時代を謎解きすることがもっとも肝要と考えたからである。
 77年に始まった「戦後最大の情報操作事件」は、その後も形を変えて続いたが、近年、名誉毀損による賠償額の高騰化、謝罪広告が出やすくなったなどの理由から、メディア側はかつてのような、事実に基づかない一方的な“リンチ”ともいうべき報道は手控えるようになった。
 たとえば、『週刊現代』は、「夫と娘が激白! 『明代は創価学会に殺された』」(95年)との事実無根の記事を掲載し、200万円の損害賠償とともに、謝罪広告(2003年3月8日号)を掲載させられる“羽目”となった。
 さらに『週刊新潮』も、北新宿「地上げ」のデマ記事(99年)を掲載し、400万円の損害賠償とともに、謝罪広告(2002年12月26日号)を掲載する“失態”を演じた。
 それ以降、週刊誌側も己を恥じたのか、謝罪広告を命じられるほどのデマ記事は姿を消したようだ。それでも、「週刊誌報道の本質はまったく変わっていない」と主張するのは、文芸評論家の岡庭昇氏だ。
 「確かに、創価学会攻撃の数は減りました。それは、創価学会側が告訴して戦うようになったという戦術の変化によるものであって、本質的な構造はまったく変わっていません。本質的に、メディア側の認識が深まったとか、体制側の認識が変わったという意味ではまったくない。学会攻撃がなおもやまない理由は、自民党に公明党をひきつけておくために時々恫喝をかける意味と、総じて左翼側に強い宗教的偏見があることがあげられると思います」
 実際、この9月の総選挙においても、投票日の週に合わせ、『週刊文春』が「見出し」による意図的な学会批判を行った。十年一日といおうか、30年近く、変わらない手法ではある。一方、明治学院大学の川上和久教授はこう話す。
 「出版系週刊誌はこれから“冬の時代”に入る。いまの20代や30代は『2チャンネル』などのネットで多くの情報を得られるため、週刊誌はもう過激なだけでは売れない。活字離れも深刻です。人権侵害を排したなかで、いかに権力の腐敗を突くか、といった本来のジャーナリズム性を保ち、活路を開けることができるか。最もしんどい部分を引き受けているのが週刊誌でもありますが、まだ成功しているといえる媒体はないようです」
 週刊誌が、“淘汰”される時代に入りつつあるのは確かなようだ。
 かつてルポライターの竹中労は、山崎正友や原島嵩といった「謀略に踊った犬ども」(竹中氏)を論評する際、『潮』誌上(82年12月号)に次のように書き残した。
 「こんにち、創価学会を攻撃するジャーナリズムに欠落しているのは、『宗教』とりわけて民衆の宗教、庶民の信仰とは何かという根本理解である」(『仮面を剥ぐ』所収/83年)
 竹中氏の指摘はいまも色褪せてはいない。多くのメディアは学会を報じる際、政治面からのアプローチがほとんどで、民衆宗教への理解といった視点はすべからく感じられないからだ。学会報道の“本質”は何も変わっていない、との指摘は十分うなずける。(完)
(文中敬称略)

 
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