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ジャーナリズム関連 執筆記事 12

【『月刊潮』2005年6月号】

戦後史における「創価学会報道」の謀略性H

信平狂言事件(下)

「謀略」に加担した政治勢力と週刊誌メディア。
〜常軌を逸した週刊誌の煽動報道で増幅され、
政治勢力に悪用された「狂言」は、“訴権の濫用”として白日の下に確定した。


■自由民主党による謝罪
 後に“訴権の濫用”として却下される信平狂言手記が世に出て2年余りすぎた1998年4月、自民党の機関紙『自由新報』の4面に、「与謝野馨・自民党広報本部長のコメント」と題する文章が掲載された。
 「指摘された諸点には明らかに行き過ぎがあり、将来法律上の問題を引き起こしかねない部分が含まれていたことは否定できません‥‥」
 「調査不十分のまま一方の当事者の主張のみを採用し、まったく意図とは別に結果としてその虚偽をあたかも容認することになった点は不適切であり、申しわけなかったと考え、遺憾の意を表します」
 信平狂言報道に対する、自民党・広報担当責任者による謝罪文だった。
 96年2月、『週刊新潮』が裏づけもなく一方的な手記を掲載したあと、当時すでに政権に復帰していた自民党機関紙も数回にわたり“狂言事件”を取り上げていた。
 同紙は96年初めから97年10月にかけ、都合82回にわたり「シリーズ 新進党=創価学会ウォッチング」なるコラムを連載。四月会代表幹事の俵孝太郎と元新聞記者の内藤国夫が交代で執筆したものだったが、この中で、内藤国夫が4回にわたり信平事件を興味本位に取り上げ、掲載された。これに対し創価学会が自民党幹事長あてに「抗議書」を送付。それに対する回答が冒頭の言葉だった。
 当時、まだ狂言訴訟の判決が出る以前のことだったが、謝罪コメントの文面には、「類似の事件の係争結果をみても、本件についても帰結はある程度予想せざるを得ません」と記され、その上での記載であった。
 さらに時の総理大臣も陳謝し、自民党幹事長も謝罪。つまり、自民党は党を挙げてこの事件を「虚偽」と認め、謝罪意思を明確にした。それは、この事件が“政争の具”として用いられたことへの反省の言葉でもあったろう。
 信平狂言事件を締め括るにあたり、当時の政治的背景を無視することはできない。この事件は、金のためならなんでもする夫婦を“役者”に、直接的には新潮社(記者)と日蓮正宗(信徒)の「共犯関係」によって構成されたものだが、背景には93年8月、自民党の38年ぶりの「下野」という政治的現象も影響していた。さらに、“依頼者を恐喝して資格を失った元弁護士”の山崎正友が、同年4月に実刑3年の刑期から仮出所した事実も見逃せない。

■狂言事件に至る政治的背景
 自民党は93年8月に野党に転落したあと、同年11月から「民主政治研究会」なる勉強会を連続開催した。年末にかけ6回行われた研究会のなかで、山崎は4回にわたり講師として出席、多くのデマを吹聴し、学会攻撃を煽り立てた。
 すでに10月の予算委員会で、自民党議員によって学会幹部の証人喚問要求がなされ、その際利用されたのが、当時発売されていた矢野元公明党委員長による文藝春秋手記だった。この頃『自由新報』にも「証人喚問を!」の見出しが躍り始める。
 翌94年になると、状況はさらにエスカレート。宗教団体や学者・文化人による学会包囲網ともいうべき「四月会」が結成され、6月に行われた設立総会には、当時野党だった自・社・さきがけの代表が来賓としてそろって出席し挨拶。翌月には村山富市を首班とする三党連立内閣が発足し、自民党は11カ月ぶりに“念願”の政権復帰を果たした。
 その半年前には政治改革四法が成立し、次期総選挙は小選挙区比例代表並立制で行うことが決まった。下野したとはいえ、細川・羽田連立を支えた勢力は同年末に新進党を結成。両陣営は“関が原”ともいうべき次の総選挙に向け進んでいった。
 95年になると、オウム真理教の地下鉄サリン事件をきっかけに宗教に対する風当たりが強まった。同年7月に行われた参議院選挙では、“初陣”となった新進党は比例票において自民党を上回り、自民党内には深刻な危機感が生まれた。その結果、暮れの宗教法人法改正にまで行き着くことになる。
 96年には、年内に総選挙が行われることが濃厚と見られた。『自由新報』の新年号には、「橋本自由民主党総裁のもと全党一丸 一大飛躍の年に」との見出しとともに、「今年の政局展望 総選挙が焦点」と大きくうたわれた。「シリーズ 新進党=創価学会ウォッチング」なる連載が延々と始まるのもこの号から。まさに創価学会攻撃は、政敵である新進党を攻撃するための“決め球”としてセットされた。
 96年冒頭、村山内閣は総辞職し、2年5カ月ぶりに自民党首班内閣が成立する。その直後に登場したのが、“信平狂言手記”であり、それに基づく“狂言訴訟”であった。
 自民党は総選挙(10月20日)までに『自由新報』で4回にわたり、“事件”について内藤国夫に執筆させたほか、4月の衆院予算委員会では、白川勝彦(当時・衆議院議員)が“手記”をもとにまたも証人喚問を要求、5月の衆院金融特別委員会でも別の自民党議員が同様の要求を行うなど、“虚偽内容”の手記が政治的に「利用」された。
 だが、利用したのは、政権党の自民党だけではなかった。狂言事件の背後には、長年の政敵である日本共産党の影も色濃く現れていた。

■日本共産党の密接な関与

 共産党と信平夫婦との関係は、党機関紙『赤旗』にも顕著に見られる。95年12月30日付の『赤旗』社会面には、匿名ながら、「元婦人部幹部」として信平信子が取り上げられた。『週刊新潮』に狂言手記が出る一ヵ月以上も前のことである。取材したのは、赤旗社会部の「栗田」という記者だったことが後に判明する。
 実際、2月初頭に函館の信平夫婦のもとを訪れた『週刊新潮』デスクの門脇護は、「赤旗が先ではまずい」としきりに夫婦を促していた。
 ちなみにこの間、信平に“虚偽告発”をするように説得工作をしたのは、日蓮正宗信徒の佐貫修一だったとの証言が残っている。“手記”が出て一年後の97年2月、内藤国夫が第三者に電話で以下のように語っていた。(北林芳典著『反逆の裏にある顔』所収)
 「実際には、あれ、一ヵ月間、佐貫という奴が北海道に行って、信平さんは決起する気なんて全然なかったんだから。それを佐貫が説得して告発までもってったわけだよ」
 当時、シアトル問題(法主のスキャンダル)で窮地に陥っていた日蓮正宗としては、何でもいいから、学会を攻撃する材料が欲しかったのだろう。『週刊新潮』の門脇を信平夫婦に引き合わせたのはこの佐貫とされるが、同人は“悪名高いペテン師”山崎正友の「手下」として当時から動いており、いまも山崎の裁判にちょくちょく顔を見せる。
 余談だが、新潮記者と共に函館を訪れたのは、この佐貫だけではない。もう一人、妙観講副講頭の佐藤せい子がいる。後日、信平側の代理人は、門脇の学生時代のゼミの先輩(女性弁護士)に決まるが、その弁護士を“新左翼系”と勘違いした佐藤は、「(共産党と仲の悪い新左翼系では)共産党が乗ってこれなくなるのではないか」と要らぬ心配までしていた。事実、日本共産党はこの事件と密接な関係をもっていた。
 実際、狂言訴訟の信平側代理人には共産系団体所属の弁護士がまじっていたほか、信平醇浩が多額の借金を踏み倒し地元で起されていた貸金返還訴訟でも、信平側代理人には、配偶者が共産党公認候補として出馬したことのある“共産系弁護士”など就いていた。
 さらに『赤旗』は、狂言訴訟の提訴を皮切りに、客観報道を装いながら5、6回にわたり意図的な中傷を繰り返した。それでいて、この事件が100万件に一件しかないとされる“訴権の濫用”として「却下」された事実を報じることは一度もなかった。
 自民党の機関紙『自由新報』が、党広報本部長のお詫びのコメントを掲載し、さらに“訴権の濫用”で却下された事実を報じた(2001年4月17日号)こととは、まるで対照的な姿だった。
 日蓮正宗の佐貫については、後日談もある。この男は、「信教と思想の自由を守る会」なる政治団体の代表におさまり、2000年総選挙、さらに2001年参院選の直前に、日蓮正宗寺院などを通じ、違法ビラを大量配布。公明党と学会から訴えられ、各100万円の損害賠償を命じられ、いずれも最高裁で確定している。その際、佐貫側の代理人についていたのが、名だたる“共産系弁護士”たちだった。

■“失格ジャーナリスト”の存在
 さらにこの事件で忘れることのできないのは、「事実」と関係なく、騒ぎ立てることを目的とする“売文屋”の存在である。「乙骨正生」がその筆頭格にあげられよう。
 乙骨は元共産党員の父親をもち、創価中学に通いながら創価高校に進学できず、一般の私立高校を卒業後、同級生に遅れ2浪して創価大学に入学。大学では自治会の委員長選挙に2年続けて立候補するも落選するなど、精神的に“屈折”した心情を抱いたようだ。在学中に脱会し、当時、山崎正友らが主導していた正信会(日蓮正宗の分派)の活動に参加するようになり、卒業後はその機関紙に雇われた。
 要するに、学会を退会した乙骨は、学会への妬みと食い扶持のために、ジャーナリスト活動と称して「反学会」活動を行ってきたとみえる。その証拠に、95年の東村山市議転落死事件につづき、この事件でも“裏づけなく”騒ぎ立てた。
 “手記”が出た直後の信子の記者会見では、取材する側にいながら、自ら司会を務めるなど、当初から公平・客観的な立場にはなかった。さらに狂言訴訟では、30ページを超える「意見書」なるものを提出。“ジャーナリスト”として、なんの裏づけも手にしていない男が、さも真実を前提にするかのように意見を述べた。さらに“訴権の濫用”と却下する判決が出たあとも、根拠も示さず、信平の言い分は正しいと「思っている」(2000年12月)と法廷で証言する始末だった。
 彼のコンプレックスが、学会が間違った存在でいてほしいとの心情を呼び起こすのは理解できるが、その個人的心情が事実そのものを飛び越してしまうのだから、ジャーナリストとしての基本を欠いているというほかない。
 もともと正信会出身の乙骨は、山崎や先輩ジャーナリストの段勲に“コバンザメ”のようにくっ付いて活動してきた。93年以降の政権変化は、乙骨にとってもまたとない活躍のチャンスをもたらしたが、“事実確認”という記者としての「最低限の基本」を欠いているため、これまで四度にわたり、名誉毀損裁判で敗訴してきた。
 こうした“失格ジャーナリスト”を連綿と重用してきたのが、『週刊新潮』である。すでに10年近い過去の狂言手記について、担当したデスクはいまどのような心境でいるのか、今回、書面で回答を求めてみた。『週刊新潮』編集部・副部長の門脇護は、「(自分で書いた)原稿を一字も変更することなく掲載」するのなら、答えると回答してきた。
 裁判所から“訴権の濫用”と「却下」された根拠のない一方的な当事者の言い分だけをもとに30数回にもわたり報じてきた側からの、『週刊新潮』の取材慣例にも反する、雑誌編集の常識からも逸脱した高飛車な回答に、この事件への“姿勢”を垣間見る思いがした。
 “狂言手記”を担当した門脇護は、83年に新潮社に入社後、『週刊新潮』編集部に配属され、多くの学会批判記事を執筆してきたことで知られる。なかでも、94年に白山名誉毀損事件を惹起し、敗訴した後も、被害者に謝罪した事実すらなく、(この事件の判決文は『判例時報』<1626号>にも収録)、法廷でも居丈高な態度をとることで知られてきた。さらに「捏造手記」を主導し、世論を大きくミス・リードしながらも、裁判で明確になった事実を受け入れることなく、反省の心は微塵も見られない。
 同誌は創刊からまもなく半世紀を迎えるが、ライバル誌の元編集長だった花田紀凱は、「雑誌社系週刊誌、いや現在の総合週刊誌はすべて多かれ少なかれ『新潮』の影響を受けている」(『産経』2005年6月4日付)と指摘する。もしそうだとするなら、門脇護らに見られる姿勢は、日本の雑誌ジャーナリズムがいかに「倫理」とかけ離れた存在であるかを象徴する姿ともいえよう。(文中敬称略)

 
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