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ジャーナリズム関連 執筆記事 10

【『月刊潮』2005年5月号】

戦後史における「創価学会報道」の謀略性F

信平狂言事件(上)

最高裁が「訴権の濫用」と断じた前代未聞の“狂言訴訟”。



■「訴権の濫用」の確定
 2001年6月26日、その極めて稀な判決は最高裁にて「確定」した。“訴権の濫用”――。この判決は、これまで日本の司法史において100万件に1件の割合でしか出ていない極めて稀なものである。
 民事裁判は、考えてみれば不思議な制度だ。悪用しようと思えばいくらでもできる。金を借りていた側が逆に貸金を“捏造”し、返還請求の訴訟を起こすこともできる。暴行を受けていないのに受けたとして損害賠償を請求することもできる。いずれも実際に起きた事件である。
 だが、そうした「ウソ」に基づく訴訟は、実際的な証拠が伴わないため“敗訴”するのが通例である。ところが、目的が別のところにある場合は、それなりの効果も生む。
 例えば一部マスコミと連携し、特定人物のイメージ・ダウンを図るために民事訴訟が悪用されたらどうなるか。その象徴的な事例が、今回の「信平狂言事件」である。
 通常なら、訴訟権を“悪用”した嫌がらせに対し、民事・刑事を問わず「反訴」することも可能だろう。だが、マスコミと連動し、特定の人物・団体のイメージ失墜を狙っていることが明らかな場合、事は単純でない。逆に反訴することで、相手の目的に手を貸す結果になりかねない。そうした矛盾をはらみながらも、この事件は、見事なまでの解決を見るにいたった珍しい事例といえる。
 事件の“主役”は、いまも函館市に住む信平醇浩(82)・信子(77)という老夫婦。さらにこの夫婦と密接に連携し、裁判報道などに名を借りてさんざんにデマを撒き散らしてきた『週刊新潮』、なかでも老夫婦に“悪知恵”を授け、訴訟遂行のために弁護士まで紹介していた担当デスクの「門脇護」(現・副部長)である。
 門脇といえば、白山名誉毀損事件(94年)、東村山市議転落死報道(95年)にもかかわった“問題記者”。つまり、いわゆる「三大デマ事件」すべてに関わった“唯一の記者”である。
 さらに学会を叩けるネタとなれば「事実」の如何にもかかわらずホイホイと飛びつく“自称ジャーナリスト”の乙骨正生。阿部日顕のシアトル事件を暴露され仕返しを目論んでいた日蓮正宗信徒らも登場。加えて、陰で密接に関わったと見られる山崎正友、龍年光ら学会退転者らがいる。
 同じ「虚構」を構えるのなら、もう少しもっともらしい“ウソ”を構えていれば、局面はまた変わっていたかもしれない。それにしては、“役者”の二人はあまりにもお粗末すぎた。函館の信平夫婦といえば、地元では、金のためなら何でもやる夫婦としてつとに知られている。
 信平夫婦は学会幹部の立場を利用し、会員に甘い言葉を囁き、金を巻き上げては返さないといった悪行を80年ごろから繰り返してきた。その傾向は、夫の醇浩に顕著で、女房の信子は夫の悪事を“幇助”し、協力する関係にあった。「信平狂言事件」でも、その構図は同じである。
 『週刊新潮』記者が最初に夫婦を取材した96年2月時点で、醇浩は訴えられた貸金返還訴訟で8回(計4件)も敗訴していた。少し調べればどんな夫婦かはすぐに判明したであろう。被害者に当たって聞くなり、担当弁護士に電話で確認することもできたはず。だが取材執筆の責任者である門脇は、記者として最低限行うべき「反面取材」を故意にか怠った。要するにウラを取らなかったのである。人を刑法犯扱いする重大な告発内容でありながら‥‥。
 信平信子の“狂言手記”は96年2月半ば、週刊新潮の≪創刊40周年記念特大号≫に合わせて掲載された。この年、新潮社は創立100周年の佳節を迎えた。その意味で裏づけなき“狂言手記”が掲載されたのは、自己顕示欲の人一倍強いといわれる「記者」が、社内事情に合わせ先走りした結果ともいえる。

■信平夫婦のウソを見破った裁判所

 霞ヶ関にある東京地裁――。民事閲覧室で申請すると、1メートル近い束が積み上げられる。信平夫婦が96年6月に起こし、完全敗訴した“狂言訴訟”の全記録である。
 膨大な量の裁判記録に目を通すと、被告側から多くの証拠が提出されていることがわかる。信子が被害を受けたと主張した時期に本人がニコニコと笑顔で写っている写真。醇浩が学会本部にかけた“恐喝まがい”の電話の録音テープ。いずれも事件の本質を端的に示す証拠類である。
 一審判決によれば裁判所は「原告本人、証人、被告本人の尋問もあり得ることを想定」しつつ、こうした証拠を含む「記録を精査してきた」。その結果、信平信子らの訴えは、「事実的根拠が極めて乏しい」、「このまま本件の審理を続けることは、原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」などとして、裁判を終結させたのである(いずれも判決文より)。
 これらの裁判で、原告である信平醇浩、信子などの証人尋問は行われていない。その「理由」について、判決文は明確に記している。
 「たとえ右人証の取調べを行い、原告及び信子が原告主張事実に沿う供述をしたとしても、前記各理由からにわかに信用することはできない」
 要するに、訴えに事実的根拠がなく、“訴権の濫用”という「不当な企て」である以上、尋問しても意味がない、逆に「不当な企て」に裁判所が加担する結果になりかねない、と判断したのである。
 判決主文も、通例の“請求棄却”と異なり、「本件訴えを却下する」との“異例”の文言で、信平の訴えを退けている。信平夫婦らの邪まな「企て」を見抜き、事実無根の主張を明確に断罪したという意味でも、裁判史に永遠に残る判決となろう。
 信平醇浩と信子は1956(昭和31)年、函館で創価学会に入会。92年5月に“役職解任”されている(翌年脱会)。その「理由」について、学会人事委員会への解任申請書の文面を判決はそのまま引用している。
 まず夫の信平醇浩――。
 「夫婦共謀して多数の会員から金銭貸借をして迷惑をかけている。70才代の未亡人を中心に、会員10名より、約5000万円の借用をする。2名については全く返済していない。6名については、借用金の2分の1ないし3分の2を返済した時点で支払を止め、催促すると『多く支払いすぎている』と言って、逆に請求書を送ってくるなどしている。幹部に言うと『この町に居れなくする』等々ヤクザまがいの脅しをするなど常識では考えられない状況が続いている」
 一方、妻の信子はどうか。
 「夫婦共謀して多数の会員から金銭貸借をして迷惑をかけている。会員からお金を借用するきっかけを作っていた。『証券会社や銀行にお金を置いておくより、うちの父さんに預けておくと増やしてやる』(略)『これからは頭をつかいなさい。父さんに預けると金利が多くつくから』等々言葉たくみにだまし続けている」
 筆者も被害者の一部に直接面談しているが、これらはまぎれもない「事実」である。夫婦が会員らから巻き上げた金品は、現時点で、裁判で確定しているものだけで約7500万円、泣き寝入りしているケースを入れると、被害者数200人以上、ゆうに1億円を超えると推定される。それらの金は“競輪狂い”とされる醇浩の日々の賭け代に消え、さらに信子の高価な洋服などに費やされた。
 もともと学会では、会員間の金銭貸借は厳禁とされていたが、内部調査の結果、92年5月15日、信平夫婦は役職を解任された。被害者らが醇浩に対し、貸金返還請求の法的措置をとったのはごく当然の成り行きだったといえよう。
 ちなみに当初、醇浩は弁護士をつけず司法書士などに相談していたようだが、途中から地元の“共産系弁護士”に任せ、争いを継続した。だが、借用証など肝心の“証拠改竄”の悪質行為が発覚するなど、いずれも敗訴している。
 逆恨みを深めた醇浩は、95年9月から12月にかけ、学会本部にたびたび恐喝まがいの電話をかけるなどしていた。職員が録音したテープは狂言訴訟でも提出され、夫婦の行状を証明する貴重な証拠となった。
 この“いわくつき”の夫婦のもとを、『週刊新潮』デスクの門脇護が取材で訪れたのは、96年2月初めのこと。“手引き”したのは、日蓮正宗信徒で、脱会者団体の事務局にいた佐貫修一である。
 佐貫は、恐喝で懲役3年の実刑を受けた“札付きのペテン師”山崎正友とも近い関係にあり、山崎にいいように使われていた人物である。この2月には、選挙前にデマビラを作成・配布した団体の代表者として、名誉毀損訴訟で敗訴もしている。

■「談合」の中身と謀略に動いたデスク

 門脇らが函館を訪れた96年2月2日(金)の午後は、時折雪のちらつく日だった。場所は信平自宅のマンション。そのときもう一人同行者がいた。日蓮正宗・妙観講副講頭の佐藤せい子である。5人が談笑する様子は、後日外部流出することになるMDに生々しく記録されている。
 不思議なことに、取材の最初は、信子の被害なるものの聞き取りから始まっているわけではない。門脇の次のような話が続いているのだ。
 「途中で妨害が入ってきて、最大のパンチ力が落ちたりすると困りますので、これはもう、ズドンと」
 「要するに最初に報じるところがどこかっていうのが、結構大きな問題なんです」
 「最初のパンチがものすごいものでないとダメなんです」
 これらの“説得”に対し、夫の醇浩が口にする次の言葉は、事件の「本質」を見事に言い表している。
 「告訴さえしてくれればいいんだ」
 被害の内容がいかなるものか、取材でまだ何も判明していない段階で、突然飛び出してくるやりとりである。話の順序が逆なのがおわかりいただけよう。要するに、醇浩は最初から、裁判ありきなのである。
 そうして初日の取材は、大した収穫もなく終わってしまう。門脇にすれば、予想外だったかもしれない。それでも「ダンビラふりかざさないで民事でいきましょう」など訴訟の作戦まで授けている。
 肝心の被害なるものが飛び出すのは、2日目以降のことだ。翌日の取材は、門脇らが宿泊するホテル客室内で行われた。佐貫の陳述書によれば、場所は、函館国際ホテルの一室。
 この日の取材は午前中から昼食を挟み、夜まで続けけられた。だがいっこうに門脇の欲する“ものすごいパンチ”は飛び出してこない。シビレを切らした門脇が、思わずつぶやく。
 「パンチが弱いですねえ」
 「僕はね、もうちょっとすごいのかと思ってたんですよ。もうちょっとすごくないと、擦り傷、切り傷くらいはないとさ」
 一方、醇浩は醇浩で、妻の信子に盛んに証言を促した。
 「早くしゃべらにゃダメなんだ」
 こうして、信子がもともとの法螺話を更にエスカレートさせていく。
 信子が被害なるものを語りだすと、醇浩は「ヘヘヘ」と下卑た笑い声を響かせる。信平らが主張してきた“衝撃の事実”を初めて知らされたはずの夫の深刻さなるものは、実際は微塵も感じられない。まるで妻の被害体験を待ち望んでいたかのような調子だった。
 実際、醇浩は「裁判に勝てば億単位の金が入る」などと後日、周囲に言いふらしていた事実がある。その日の夜のことだろうか。信平夫婦を前に、門脇と佐貫らのヒソヒソ声の会話が記録されているくだりがある。
 門脇 やっぱり記者会見やるべきじゃないでしょうか。
 佐貫 そりゃそうですね。
 門脇 これはインパクトある。
 佐貫 最後にきて“逆転”ですね。
 2人は取材成果に満足した様子だったが、この記録を耳にして感じるのは、信子の主張する被害の時期、回数、内容など、いずれも肝心の事実が幾度となくクルクルと変遷していることだ(日時、回数は実際の裁判に入っても何度も変遷した)。
 それらは、そもそもがすべて“捏造話”であったことの証明でもあった。
 それから3日後、上京した信子は門脇と一緒に東京の弁護士事務所を訪ねている。そこで証拠を何一つ示せないばかりか、証言に具体性がないことを指摘され、「これでは裁判はできない」と弁護士から“三くだり半”を突きつけられてもいる。だが、信子の主張だけを一方的に掲載した“狂言手記”は、それから一週間余り後、活字になってしまう。事実を伝えるという最大の役割を、メディア自ら“放棄”した瞬間だった。
 門脇はこのとき裏づけ取材を怠っただけではない。手記掲載後、自身の“指南”どおり、新宿西口のホテルで記者会見まで開かせた。会場を手配したのは佐貫のグループ。別室では醇浩と佐藤せい子が会話を交わしていた。そこに記者会見の司会役を務めた乙骨正生がノックして入ってくる。
 このとき裁判で依頼する弁護士は、門脇の大学時代の先輩の女性弁護士に半ば決まっていたが、女性同士が並ぶ記者会見は「絵になるね」(門脇と乙骨)などと“舞台裏の密談”を重ねていた。さらに門脇が信平夫婦に記事をキャンペーン化する方針を伝えると、乙骨、佐貫らとともに一同、野卑な笑いを発していた。
 “訴権の濫用”で「却下」されることになる裁判は、この記者会見から三カ月ほどすぎた6月初頭、東京地裁に提訴された。これらが、日蓮正宗(信徒)と新潮社(記者)らの“合作プレー”であったことは、以上の経緯からも明らかであろう。
 新潮の門脇は、94年に自ら担当デスクとして執筆した白山名誉毀損事件で提訴され、窮地に陥っていた。“意趣返し”を果たしたいとの思惑が、恐るべき「世紀の大虚報」に暴走させたのであろう。
 狂言の“役者”を演じた信平醇浩は昨年12月、醇浩が約500万円の借金を踏み倒した被害者の女性(86)に暴力事件を起こし、今年一月、函館西署に逮捕された。若い時分からさまざまな犯罪行為に手を染めてきた男の“本性”を見抜けなかった門脇の「取材」とは一体何だったのか。
 昨年3月、新潮社の佐藤隆信社長は、信平夫婦を「あのいかがわしい夫婦」と表現し、学会に遺憾の意を伝えた。だが、捏造手記の作成を主導し、「謀略」に手を染めた肝心のデスクは、その後も「次長」「副部長」と順調にポストを上がりながら、責任を問われることなく、いまも平然と仕事を続けている。(文中敬称略)

 
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