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『拉致被害者と日本人妻を返せ〜北朝鮮問題と日本共産党の罪』

第三章 北朝鮮帰国運動の大罪
     〜“地上の楽園”を演出し、責任回避してきた
                日本共産党の償うべき「汚点」〜


戦後史の“二重の悲劇”
 2002年11月9日、『読売新聞』が北朝鮮に帰国した日本人妻に関するスクープ記事を掲載した。
 「『脱北』日本人妻 極秘に帰国 家族含め40人 外務省が渡航書 94年ごろから」
 同紙の社会面にも、関連記事として次のような見出しが躍っている。
 「祖国の支援なく困窮 日本人妻ら極秘帰国 就職阻む言葉の壁」
 「『過去』隠しおびえる日々 中国に多数 救出待つ」
 これらの記事が掲載されたほんの数日前にも、北朝鮮国境と接する中国で、脱北者を支援する日本人のNGO関係者が中国公安部によって拘束され、日本に強制送還されたニュースが報じられていた。
 北朝鮮に渡った日本人妻が秘密裡に帰国しているというニュースは、それまでも週刊誌などで断続的に報じられてきた。だが、新聞の大手マスコミが報じたのは初めてのことだった。
 1959(昭和34)年から始まる帰国事業で、北朝鮮にわたった日本人配偶者は約1800人とされる。ほかに子どもを含めた日本人は合計で6000人ほど。在日朝鮮人と合わせ9万3000人余りが帰国事業によって、北朝鮮の土を踏んだ。
 最初の帰国船が新潟港を出発したのは、1959(昭和34)年12月。それから40数年もの年月が経過している。拉致被害者が行方不明になってからの年月が20数年であることを考えると、それよりさらに20年さかのぼる。
 この問題を考えるには、当時の国際状況と、日本における在日韓国・朝鮮人のおかれた環境とを考慮しなくてはならない。
 当時、朝鮮半島では“分断”を固定化させた朝鮮戦争が終結してまもないころで、北と南にわかれて、社会主義と資本主義の国家建設に取り組んでいた時代である。終戦後は、社会主義国である北朝鮮の躍進のほうがむしろ目覚しかった。多くの人々が社会主義という新しい国家統治システムに希望をいだき、それが色濃く信じられていた時代である。
 一方、日本国内においては、戦争終結によって戦勝国となったかつての植民地出身者は、日本国籍を失うなど、多くの差別的対応に直面してきた。祖国に帰ろうにも、朝鮮戦争が始まり、帰るチャンスを失った。そうした時期をへて始まったのが、北朝鮮への帰還運動だったのである。実は帰ったのは、そのほとんどが現在の韓国出身の在日朝鮮人であり、社会主義の躍進への希望を胸に抱いての“歓喜の帰国”だった。

ウソだった「地上の楽園」
 帰国事業のきっかけとなったのは1958(昭和33)年8月、川崎市に住んでいた在日朝鮮人が、金日成首相(当時)に対して、集団帰国したい旨の手紙を出したことだったとされる。同年9月8日、金日成は帰国を「熱烈歓迎する」と意見表明し、これを契機に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を中心とする在日朝鮮人の帰国運動が盛り上がっていく。
 北朝鮮にとっては、朝鮮戦争が終わってまもないころで、労働力が不足していた時期である。在日朝鮮人が帰国を望むのなら受け入れたいという素直な気持ちだったと思われる。
 日本政府としては、失業率が高い在日朝鮮人は治安悪化の温床になりかねないという見方をしていたこともあり、これを機会に帰国してもらったほうが有り難いとの気持ちもあった。法務省が発行する『出入国管理とその実態(昭和46年版)』では、そのいきさつを次のように記している。
 「朝鮮人の北朝鮮帰還ルートを開くべきとの動きは、昭和28年に朝鮮戦争の休戦協定が成立する前後から見られたが、同32年9月ごろからは大規模な集団運動としてこれが展開されるに至り、344年には‥‥‥閣議了解がなされた」
 この記述のとおり、自民党を与党とする日本政府は1959年2月、閣議了解において、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国を認めることになる。
 以後、日本赤十字社と朝鮮赤十字社が窓口となり、交渉のもつれなども見られたが、その年の暮れに第一次帰国船が出て、以後わずか2年間のうちに、約7万人もが北朝鮮に帰国したのである。
 まさしく現代の民族大移動ともいえたが、資本主義から社会主義国へこのような大規模な移動がおこなわれたことは、世界的にも珍しいことだった。
 1960年から64年まで日朝協会新潟支部事務局長の立場にあった佐藤勝巳氏(現代コリア研究所長)の書いているところによれば、この帰国運動は「実質2年間で終わった」と指摘している。最初の2年間で、帰国者総数の8割が帰国したからだ。
 そのあと帰国者の流れがなぜ続かなかったのか。佐藤氏は次のように指摘している。
 「それは『楽園』ではなく『凍土』であるということが、さきに『帰国』した人たちから、日本にいる肉親へ、衣類、薬、時計、便箋、ちり紙、唐辛子などを送れという信じがたいことが、手紙という形で届きだしたからである。しかし、その手紙には、北朝鮮の悪口などは書いていないし、逆に『金日成首相の暖かい懐に抱かれ幸福に暮らしています』ということが長々と書かれていた。そしてさりげなく最後のほうに、物を送って欲しいと書いてある。当然なこととして、それを読む肉親たちは、『幸福だというのになぜ、物を送れというのか。しかも唐辛子まで』『物を送れという社会がよいはずがないのに、金日成や北朝鮮の悪口はなく、逆に、長々と金日成や彼の国をほめたたえている』『いったいこれは何なんだ』と10人が10人疑問を抱いた。そして、親兄弟の間で、ヒソヒソとこの疑問が語られだした。この話は、またたく間に、在日朝鮮社会に広まっていった」(『諸君』88年5月号)
 さらに別の機会に佐藤氏はその理由をこう書いている。
 「この現象は先に帰った人たちから日本にいる肉親とあらかじめ打ち合わせていた『暗号文』(手紙)が届きだしたことによる。それのいずれもが『来るな』という暗号ばかりである。そして手紙に贅沢品や防寒具ではなく便せん、封筒、歯磨き粉、歯ブラシ、唐辛子など日用品や嗜好品を送れと書いてある。北朝鮮から届く封筒や便せんは日本の敗戦直後の物よりもはるかに粗悪品であった。こんな粗悪品(手紙)を受け取ったら多くの説明を必要としなかった。瞬時にして生産力と生活程度の想像がつく。北朝鮮への『帰国』は、これらの『手紙』によって事実上終わったのである」(『文藝春秋』97年12月号)
 ここで重要なことは、「地上の楽園」として当初宣伝されていた北朝鮮が、実はそうではなかったという《事実》である。しかもその《事実》は、当事者の間ではすでに2年後には知られていたという現実である。
 もともと、北朝鮮がほんとうに「子どもをただで大学まで行かせることができる」「病院の治療費もいらない」「日本との自由往来もできる」などと宣伝されていたような国であるのかどうか、当事者である在日朝鮮人には半信半疑の人も多かった。そのため、先に帰った人と、暗号を取り決めていた人が多かったというのである。だが、北朝鮮から送られてくる暗号はいずれも「来るな」という内容であった。
 当時、在日社会は「65万人」ともいわれていたので、わずか2年間で、その1割の人が帰っていった。壮大な大移動である。だが、帰国事業は最初の2年間で、実質的に終了した。
 事実、このころ「地上の楽園」のウソを見抜き、『楽園の夢破れて――北朝鮮の真相』(全貌社、1962年)という書物で北朝鮮の現実を警告していた元朝鮮総連幹部も存在した。関貴星(せき・きせい)という人だが、同氏は1957年と60年の二度にわたって北朝鮮を訪問し、その真実の姿を明らかにしていた。
 だが、その後も、在日朝鮮人の帰国を熱心に推進し続けた人たちがいた。
 最初の帰国達成から熱心に運動を展開し、最後まで在日朝鮮人たちを「凍土」に送りつづけていた主役は、ほかならぬ日本共産党という政党であった。

帰国実現を訴え続けた機関紙『アカハタ』
 そのことは当時の日本共産党機関紙『アカハタ』で、年末に帰国第一船が出航した昭和34年だけでも、1面で40回以上にわたって帰国事業の交渉の行方を詳細に報じていることからもうかがえる。
 『アカハタ』が同紙の「社説」ともいえる「主張」欄で最初にこの問題を取り上げたのは、昭和33年10月である。「在日朝鮮人の帰国要求を全面的に支持する」とのタイトルは、当時の岸内閣を批判し、一刻も早く、在日朝鮮人の帰国実現を訴えかける内容のものだった。
 一方、その後ともに帰国運動に協力したとされる日本社会党の機関紙『社会新報』は、これらの経緯にほとんど触れていない。昭和34年最終号である12月25日号の「社会新報が選んだ本年の10大ニュース」においても、帰国船の話は一行も出てこない。
 社会党が北朝鮮と密接な関係をもつようになるのはこれよりずっと後の1970(昭和45)年8月の成田知巳委員長(当時)の北朝鮮訪問からで、それまでの日本側の窓口は日本共産党の独断場だった。
 日本共産党の党代表団の初訪朝は昭和34年2月で、社会党の昭和38年に比べても、4年早い。70年ころまでは、社会党と北朝鮮との関係はほとんどなかったといってよい。
 つまり、この事実は、帰国運動に共産党がいかに“中心的”な役割を果たしていたかを示している。しかも、2年目になると、口コミ、手紙などで、北朝鮮の真実の姿も知られていたころである。いまごろになって日本共産党が、「善意で協力した」旨の言い訳などは、絶対に通じないだろう。

在日朝鮮人を「死の国」に送還しつづけた日本共産党
 問題にすべきは、当事者の間ですでに2、3年後には、北朝鮮が「地上の楽園」でないようだということがはっきりしてきたにもかかわらず、同党は最後まで、帰国事業を推進する側にまわり続けてきたという事実である。
 北朝鮮の朝鮮労働党と日本共産党の関係は、当時、密接なものがあったが、日本共産党の訪朝団は以下のように5回にわたって派遣されている。
 @ 1959(昭和34)年2月 宮本顕治団長
 A 1961(昭和36)年9月 宮本顕治団長
 B 1964(昭和39)年4月 袴田里見団長
 C 1966(昭和41)年3月 宮本顕治団長
 D 1968(昭和43)年8月 宮本顕治団長

 このうち、最初の訪朝団は、帰国船が出る年のはじめに派遣された。ここで宮本顕治書記長(当時)と金日成委員長は、在日朝鮮人帰国の“即時実現”に合意する共同コミュニケを発表している。その後2回目となる61年の訪朝で再び団長をつとめた宮本書記長は、朝鮮労働党第4回大会に出席し、こうあいさつしている。
 「同志のみなさん、われわれ両党の共同コミュニケで課題の一つとなっていた在日朝鮮公民の祖国への帰国問題はすでに完全に実行に移され、今日までに7万1000人の人びとが希望にしたがって朝鮮民主主義人民共和国に帰国することができました。‥‥‥わが党も日本のすべての民主勢力とともに日本支配グループのあらゆる妨害をはねのけながら、この問題の解決の促進に協力できたことを喜んでいます」(1961・9・12)
 また、同党の第3回訪朝団となる64年には、受入れ側の李松雲・朝鮮労働党平壌市委員長が次のような言葉で袴田団長らを迎え入れている。
 「日本共産党は、日本の労働者階級と勤労人民の革命的前衛隊であるばかりでなく、国際共産主義運動のたのもしい隊列であり、強力な部隊である。‥‥‥日本共産党と日本の民主主義勢力は、在日朝鮮公民の帰国事業に積極的に協力したし、祖国への自由往来を実現するための在日朝鮮同胞と全朝鮮人民の正当な要求を全面的に支持している」(1964・3・30)
 さらに2年後の66年、宮本訪朝団を迎えた同じ李松雲・朝鮮労働党中央委員は、「日本共産党は、在日朝鮮公民の民主的民族的権利の擁護と民族教育の保障ならびに祖国への往来の自由の実現のために力をつくしています」(1966・3・15)と最大に賛嘆してやまなかった。
 日本共産党の最後の訪朝団となる68年にも、歓迎宴で宮本書記長は次にようにあいさつした。
 「われわれは今後とも、反動勢力の圧迫ないし在日朝鮮人の往来の自由、帰国の自由のためにたたかうつもりであります」(1968・8・25)
 事実、団長の宮本書記長は、この訪朝団が帰国後におこなった記者会見で、当時中断していた帰国運動について次のように述べている。
 「日本と朝鮮の関係の問題では、在日朝鮮人の帰国問題についても話しあいました。今日、朝鮮民主主義人民共和国への帰国を希望しながら帰国の道をふさがれている在日朝鮮人はたくさんおり、帰国事業を再開させることは、人道上からも、日本側が一日も早く責任をもって実現しなければならない問題です。われわれは、今度の訪問を通じて、日本側が、1月のコロンボ会談で合意に達した内容を、日本赤十字として責任をもって実行する態度を明確にするならば、この問題の前進的な解決をはかることができるという、確信をえました」(1968・9・3)
 この段階にいたっても、日本共産党は、帰国事業の存続・推進を党外交として進めていたのである。この1968(昭和43)年というのが、どのような時期であったか振り返っておかなければならない。
 すでに第一次帰国船の出港から10年近くが経過しており、約8万8000人の在日朝鮮人が帰還していた。この数は全帰国者数の95%に当たる。つまり、さきほどの佐藤氏の言葉にもあるように、帰国運動は最初の2年間で実質的に終わっていたのである。
 帰国者の数は激減していき、67(昭和42)年10月の段階で、いったん帰国事業は打ち切りとなった。法務省が発行した『出入国管理とその実態(昭和46年版)』でも、その経緯が詳しく記されている。やや長くなるが引用したい。
 「北鮮送還が開始された当初は帰還申請者が1か月平均5000名以上もあったが、その後しだいに減少し、昭和36年末ごろには月平均150〜250名程度に激減した。また、帰還者についても、当初は各次船とも1000名前後に達していたのが、昭和36年10月ごろから激減し、翌37年初めには各次船とも60〜70名にまで減少したため、これが一つの転機となって、同年後半からは毎月1〜2回の配船、1船につき約200名の少数長期方式に切り替えられた。しかし、申請者は依然月平均200名前後に終始し、また帰還者も各船200名程度にとどまり、昭和41年ごろには申請者、帰還者ともさらに激減した。ここに至り、戦後処理として実施された北鮮帰還はすでにその任務を終了したと認めざるをえなくなったので、同年の第7回目の協定更新にあたり、わが国は、この更新が最後のものであることを北朝鮮側に通告し、ついで昭和42年8月12日限りで帰還申請の受付を締め切り、同年11月12日をもってこの帰還協定を終了させたのであった」
 だが、日本共産党はこの段階においても、あくまで帰還事業の「再開」にこだわり、日本政府との交渉に乗り出していったのである。
 その証拠に、第5次訪朝団が帰国した2日後の9月5日には、訪朝団に随行していた不破哲三・第一政策委員会副委員長(現議長)が宮本書記長とともに首相官邸におもむき、当時の官房長官らと面会し、帰国事業の再開を申し入れている事実もある(『赤旗』9月6日付)。
 もともと不破氏は、鉄鋼労連の書記長をやっていたが、64(昭和39)年に宮本書記長に目をかけられて党本部入りし、政策面などで宮本書記長を支える立場になり始めたころである。その不破氏が当時、どのような発言をしていたか。昭和43年9月12日付の『赤旗』では次のように記録されている。
 「われわれは、帰国後、日本政府と日赤に、最大の障害となっていた合意事項の実行の保証の問題で、両者の意向が一致していることが明らかになり、障害がとりのぞかれた以上、この共通の基礎にたって日朝赤十字会談をすみやかに再開し、帰国事業再開を一日も早く実現することを申し入れたのです」
 不破氏らによるこのような強い働きかけがあり、帰国事業は71年5月、再開されることになったのである。そのことは党機関紙『赤旗』が、1面で連日にわたって次のように報じつづけたことからもうかがえよう。
「第一船、きょう新潟に 帰国事業3年半ぶり再開」(5月12日付)
「歓声の中に入港 新潟港に2000人 朝鮮帰国再開祝い」(5月13日付)
「帰国再開で祝賀宴 新潟で3団体 帰国者、朝赤代表迎え」(5月14日付)
「帰国船、清津へ出港 新潟 3000人が盛大な見送り」(5月15日付)
「帰国船、祖国に着く 清津港 親子、肉親、感激の対面」(5月17日付)
 これらの事実は、同党がこの段階にいたってもまだ、在日朝鮮人を平然と「死の国」に送り続けていたことの厳然たる証明である。
 すでに、帰国事業が始まって2年がすぎた段階で、現地からは窮乏を訴える手紙が届き始めていたのである。日本共産党は1961(昭和36)年以降4回にわたる訪朝団の中で、朝鮮労働党に対しその現状を問いただし、日本への帰国の約束、自由往来を強く求めるべき立場にあったはずである。しかし、団長の宮本顕治氏はそうした行動を一切とらなかったばかりか、友好関係を維持するためにむしろ“避けた”のだ。この点では、同行していた現・不破哲三議長もまったくの同罪である。

日本共産党員が著した『38度線の北』
 当時、日本共産党がいかに多面的に帰国事業にかかわっていたかを証明する一つの書物がある。在日朝鮮人の帰国を決心させるのに多大な影響を与えたとされる『38度線の北』という本で、日本共産党の“下部出版社”である新日本出版社から1959年4月に上梓されている。
 筆者は当時、進歩的な軍事評論家とされていた寺尾五郎氏(故人)で、日本人が北朝鮮を訪問し、その見聞記としてまとめた初めての本といわれた。だが、当時、日本共産党員でもあった寺尾氏の目で見て書いたものだけに、北朝鮮のいいところだけを取り上げ、翼賛した内容の本である。
 当時の在日朝鮮人にとって、ほんとうに北朝鮮が自分の運命を賭けるに値する国であるかどうか漠たる不安があった。そこへ、この本がタイミングよく出版されたのである。在日朝鮮人はこぞって貪るように読んだと伝えられている。
 寺尾氏は帰国運動を中心的に支えた日朝協会の専務理事もつとめていたが、その機関紙である『日本と朝鮮』では、同書の出版記念会が59年6月9日、一ツ橋の学士会館で開かれたことが報じられている(6月15日付)。
 もともと寺尾氏は、1921年に北海道室蘭市で生まれ、早稲田大学文学部(哲学科)を卒業後、戦前の共産主義運動に参加した。やがて治安維持法違反で逮捕されたあと、学徒動員で徴兵され、満州ですごした。その後、部隊での反戦活動がもとで憲兵隊に拘束され、入獄。戦後、豊玉刑務所から出獄後、すぐに日本共産党本部で専従活動家となり、当初、宮本顕治氏の秘書のような仕事をしていた。
 1952(昭和27)年には、吉武要三のペンネームで『アメリカ敗れたり?――軍事的に見た朝鮮戦争』という書物を出版。社会主義陣営寄りの軍事評論家としてみとめられ、58年8月、北朝鮮から建国10周年記念日への招待状が届いたという。
 寺尾氏は日朝協会が編成した訪朝使節団の一員として同年9月に訪朝し、さらに一人だけ残って取材を続けてまとめたのが『38度線の北』だった。北朝鮮を翼賛したこの本は、帰国熱に火をつけるかっこうとなった。
 だが、実際はまったく逆だったのである。
 帰国した瞬間から、日用品をはじめ食べものの心配をしなくてはならなかった。北朝鮮が経済発展の最中にあったとはいえ、日本よりはずっと遅れていた。むしろ帰国者のほうが身なりは立派であったし、経済的にも豊かだった。そのため現地では嫉妬心もまじり、逆差別されることにつながった。
 日本人には考えられないことだが、北朝鮮は、実は厳密な階級社会である。
 出身成分(北朝鮮特有の身分制度)が大きく三つに区分され(細かくは51種に分類)、帰国者はもっとも下部の“要監視対象者”である「敵対層」に分類される。
 帰国者は、“帰胞”(キポ)といって馬鹿にされ、階級の異なるものとの結婚もできなかった。日本の江戸時代の士農工商をさらに細かく分けたような、綿密な階級ができていたのである。
 そもそも59年12月に、第一船が清津港に着いた瞬間、帰国者の期待はいっぺんに吹き飛んだといわれている。帰国者を歓迎するために動員された朝鮮人たちが皆、みすぼらしい身なりをしていて、顔色も悪かったからだ。その瞬間、帰国者たちは「だまされた」と悟り、引き戻すことのできない自分の運命に観念せざるをえなかったともいう。
 だまされたと感じた青年たちの中には、寺尾五郎氏が再訪朝した機会をとらえ、寺尾氏に直接怒鳴り込んだグループもいた。産経記者だった柴田穂氏の『金日成の野望』(サンケイ出版)によると、帰国者らは寺尾氏の胸ぐらをつかんで、次のように文句を言った者もいた。
 「この北朝鮮が地上の楽園だって? 貴様は、この国に何度も出入りしていて、ここの現実をしっかり見届けているはずだ。良心のかけらでもあったら、あんな嘘八百は並べられないはずだ」
 「寺尾! 貴様の本を真に受けたからこそ、帰還船に乗ったのだ。そして、おれたちは、いま、こうして青春を棒に振っているんだぞ。むちゃくちゃになったこの人生をどうして償ってくれるんだ。答えてみろ」
 ちなみに、帰国者の半分以上が、30歳以下のいわゆる青年層であった。それだけに青年たちは、「地上の楽園」との《宣伝》に一生を台無しにされてしまった悔しさを抑えられなかったのだろう。
 寺尾氏を糾弾した青年らは、金日成の逆鱗にふれ、その後行方がわからなくなったとされる。
 その後寺尾氏は61年に「日本朝鮮研究所」を設立、専務理事に就任する。同時に、日本共産党の下部出版社である新日本出版社からは『朝鮮・その北と南』(61年)、『朝鮮問題入門』(65年)など北朝鮮を翼賛する書物を次々と出版し、活動を続けた。
 67年には、中国共産党との密接な関係から、日本共産党により「除名」され、その後は、安藤昌益や吉田松陰などの革命家の研究に没頭した。99年8月、78歳で没している。
 ここで問題とされなければならないのは、日本共産党員によって書かれたいわば共産主義思想に洗脳された書物が、帰国運動を側面からサポートしたという事実である。だが、寺尾氏も晩年にいたるまで、自らの責任について公(おおやけ)に謝罪することはなかった。

日朝協会がはたした役割
 さて、北朝鮮への帰還運動に、日本共産党と二人三脚でかかわった団体があった。「日朝協会」とよばれる民間団体がそれで、1951(昭和26)年に発足した朝鮮総連の分身ともいうべき組織であった。その後55年に日本人団体に改組されたが、日本共産党シンパである畑中政春氏が理事長に就任し、日本共産党色の強い団体となっていった。
 日朝協会は各県に地方機関をもち、朝鮮労働党の在日組織である朝鮮総連と日本共産党のパイプ役のような役割を果たした。日本共産党にとっては、かつての日ソ協会や日中友好協会のように、党内の要職にある人物をもぐりこませ、役職につけている。
 昭和40年代には、日朝協会の常任理事に、不破哲三書記局長(当時)が就いていた時期もある。つまり、日本共産党においては、朝鮮問題の担当は不破氏だったということになるのだろう。
 このころ、日本共産党員として、日朝協会新潟支部の事務局長をつとめていた佐藤勝巳氏は、『わが体験的朝鮮問題』(東洋経済新報社、昭和53年)で次のように記している。
 「わたしが日本共産党に入らなかったら、おそらく日朝協会新潟支部の専従事務局長になることもなかったと思う。‥‥当時の新潟市は、共和国と日本を直接結ぶ、いわば日朝友好の接点に位置する重要な都市であった。その都市の日本側の友好団体である日朝協会の理事長や事務局長を何党の人が占めるかは、少なくとも共和国・総連、日本共産党にとっては無関心ではありえないことだった」
 さらにこう続ける。
 「当時、日本共産党と総連の関係は、現在とはくらべようもなく『友好的・兄弟的』であった。日本共産党の側からすれば、対社会主義国との関係では、同じマルクス・レーニン主義党としての自負があり、事実、社会主義国とのパイプは、すべて日本共産党を通さなければ、何ごとも話は通じない仕組みになっていた。このような諸関係のなかで、日朝協会新潟支部の専従事務局長のポストに、たとえば社会党員がつくなどということは、共和国や総連、日本共産党にとってはありえないことであった」
 当時、日朝協会には、社会党の人たちもまじっていた。日朝協会群馬県連合会の代表には、後に社会党委員長として、自民党の金丸信副総裁らともに訪朝した田辺誠氏の名前も見える。だが、事務局長のように実質的采配をふるうポストは、そのほとんどが日本共産党員かそのシンパで占められていたわけである。つまり、日本共産党のコントロール下にあった。
 さきの『38度線の北』を書いた寺尾五郎氏も、日朝協会の専務理事だった時期がある。佐藤氏は『わが体験的朝鮮問題』でこう振り返っている。
 「60年代前半は、そんなことを知らないわたしは、一生懸命『日朝友好運動』のなかで『社会主義朝鮮』の『素晴らしさ』を日本社会に宣伝してきた。このように表向きと現実のギャップを見抜けなかった自分の不明を恥ずべきであるが、今になって、その頃の自分の姿を振り返ると漫画としかいいようがないし、そのような日本人と朝鮮人の関係は、喜劇を通り越して悲劇ですらある」
 その後佐藤氏は新潟をはなれ上京し、寺尾氏がつくった日本朝鮮研究所で働くことになる。佐藤氏の名誉のために書いておくが、その後、北朝鮮の本当の姿を知るとともに、佐藤氏は共産党を離党。現在、帰国者だけでなく、拉致被害者救済の先頭に立っていることは有名な事実である。

問題解決が放置された理由
 ひとくちに10万人が北朝鮮にわたったといっても、そこには一つひとつの数えきれないドラマがあった。現地では結婚したり、さらに子どもが生まれたりもした。だが、このうち、何人の人が生存しているかは、一部を除いてほとんどわかっていない。つまり、大部分が行方不明の状態となっているのだ。
 あるものは政治犯収容所に送られ、あるものは処刑され、あるものは飢え死にしたともいわれる。
 これら帰国者の中には、北朝鮮から逃れ中国に入国し、密かに韓国や日本に逃れた人たちもいる。それらの行動は『帰国船 楽園の夢破れて三十四年』(鄭キヘ著、文藝春秋社)や『北朝鮮大脱出 地獄からの生還』(宮崎俊輔著、新潮OH!文庫)、『北朝鮮という悪魔』(青山健熙著、光文社)などの手記からもうかがい知ることができる。
 朝鮮労働党の元情報工作員である青山健熙氏は、最近も日本人妻のうち、「北朝鮮で日本から仕送りを受けられない人は、もう生きていない」と証言している。かろうじて生きているのは、日本にいる親族からの仕送りがじゅうぶんで、物質的に不自由なく暮らしている帰国同胞に限られるという。
 青山氏が2002年11月20日、民主党のプロジェクトチームの会合で証言したところによれば、1960年代から70年代に日本人妻らに対する「4回の大粛清が行われた」という。加えて「日本に里帰りしたいと署名活動したり、日本を懐かしんでラジオを聞いたりした人が多数、収容所に送られたと聞いた」と話している。
 日本人妻の一時帰国は、日朝赤十字による日本人配偶者の里帰り事業で、97年11月の第一陣をかわきりにこれまで3回、計43人が一時帰国した。それらはいずれも右のような恵まれた《一部の者》にすぎない。
 こんな逸話がある。この里帰り事業のはじめに、日本のある政治家が北朝鮮の最高幹部に何人くらい生きているかを問いただしたという。答えは「正確に数えたことはないが、400人くらいだと思う」というものだった。事実なら、1800人のうち、97年の時点ですでに2割しか生き残っていなかったということになる。
 国交がないとはいえ、隣の国でこれほどの大規模な人権侵害がおこなわれていながら、なぜ日本ではこれまで大きく問題化することがなかったのだろうか。
 一つは、当時の左派系文化人をはじめ、左派系マスメディアが帰国運動を後押しした事実がある。その中心的存在が日本共産党であるが、やはり責任を回避しておきたいという心理は無視できない。
 そのほか、当時の帰国者たちには、特に日本人妻に顕著であろうが、日本の生活をすてて、現地に渡った人が多かったという事実がある。ある意味、日本人の家族からは「勘当」同然の立場で、北朝鮮に渡っていった者も多い。そのため日本に残った親族にとっては、心配事ではあっても、おおっぴらに社会問題にして探すという行動に至らなかった。それが拉致事件との大きな違いであろう。彼らはまさしく、不幸なことに“戦後棄民”といってもいい存在である。
 また、拉致問題と同じく、北朝鮮との国交正常化のための交渉において、日本人妻の問題がタブー視されてきた面もある。事実、北朝鮮へのコメ支援の見返りに、北朝鮮側は日本人妻を一時帰国させてきた。外交の小出しの取り引きカードの一つとして、北朝鮮側が利用してきたわけである。
 帰国者の多くは北朝鮮に渡る際、全財産を朝鮮総連に寄付し、一文無し同然になって向こうにわたっていった。だが、帰国直後から歯磨き粉や歯ブラシにも困っている状況である。日本からの仕送りがなければ、いずれ困窮することは必然だった。加えて、階級社会における社会的差別、偏見など、日本の差別、貧困をはなれて北朝鮮にわたった人たちに待っていたのは、さらなる“二重の差別”であった。
 つまり、仕送りをする日本の親族にとっては、仕送りが途絶えることは、北朝鮮に住む親族を“見殺し”にすることに等しい。要するに帰国者らは、北朝鮮国家による、合法的な“人質”となったわけだった。
 そのため、日本人拉致事件においても、そうした“人質”(親族)を北朝鮮に持つ在日朝鮮人が、拉致工作の“協力者”として利用されることになった。
 原ただ晃さんの例を見てもわかるが、韓国工作をおこなうために拉致した人になりすますような場合、拉致が明るみにならないように、身寄りのない、海外旅行を一度もしたことのないような日本人を探している。こうした調査は北朝鮮工作員に直接できることではない。
 帰国者という“人質”がなければ、なりすまし目的の拉致対象者を探すことはそれほどたやすくなかったといえるだろう。その意味でも、日本人拉致問題と帰国事業とは、切り離して考えることはできない。

「結果責任」から逃げ続ける日本共産党
 だが、帰国事業に対して最大の責任をもつはずの日本共産党は、これまで40数年にわたり、なんの総括もしてこなかったばかりか、被害者や家族へいっぺんの謝罪すらしてこなかった。むしろ「人道的行為を党利党略に使うべきでない」とのあべこべな理屈をつけて、問題をはぐらかし続けている。兵本氏が言う。
 「共産党は自分に都合の悪いことは反省するなどということはけっしてしない政党です」
 当時、人道的見地にたって帰国事業を推進したことは、確かに非難されるいわれはないだろう。だが、その後、在日朝鮮人の間でその現実が明らかになっていたにもかかわらず、延々と帰国事業の存続を求め、無実の庶民を「死の国」に送ることに積極的に加担してきた事実は消せるものではない。結果的に10万人もの人々を“地獄”に突き落としたのだ。しかも、社会主義の“幻想”ゆえの行動からである。
 青山健熙氏の『北朝鮮という悪魔』に前書きを寄せた佐藤勝巳氏も次のように書いている。
 「以上を見れば分かるように、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国に決定的な役割をはたしたのは総聯と日本共産党である。日本共産党は、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国問題に『敵』を打倒するための統一戦線を作るのに積極的に関与したのである。帰国問題の関与が正しかったのか、間違っていたのか。日本共産党が在日朝鮮人の帰国問題を総括したという話を耳にしない。なぜ、黙しているのか。説明する義務がある」
 もっともな意見だろう。佐藤氏の疑問に代わりに答えれば、日本共産党は、絶対間違いを犯すことがないと内部的に位置づけられた政党だからであろう。絶対的無謬性にたった政党であるがゆえに、どんなに明白な誤りも認めることができないのである。
 仮に誤りを認めることになれば、当時、北朝鮮の社会主義というものに幻想を抱いた己自身の誤りを否定することになる。それは世間的には、日本共産党という、共産主義政党の「自己否定」につながる。そうした矛盾が、同党をしてますます自己総括から逃げさせている原因であろう。
 ただ、多くの帰国者やその家族が北朝鮮の地で路頭に迷い、いまや中朝国境でも助けを求めている現実がある。その間、共産党がとってきた“消極的態度”は、はっきりいえば、彼らを見殺しにする行為【原文は「不作為の罪としての“殺人加担行為”」(共産党はここに難クセをつけてきた)】といってもよいのではないだろうか。
 実際は、日本共産党は、「人道目的」で帰国事業を続けたのではなく、朝鮮労働党との関係、また国際共産主義運動を守るために続けたといってもよい。つまり、人のいのちより、自らの主義・主張を優先してきたのだ。
 そのトップである不破議長らがいまごろになって、昭和43年の訪朝で朝鮮労働党との関係は変わったなどと強調しているが、なんの理由にもならない。
 その後、朝鮮労働党が、日本共産党にかわって、日本社会党との関係を深めていったことは事実であり、その意味では、拉致問題では社会党の責任も大きいという人もいるだろう。だが、帰国事業に限っていえば、その罪は歴史的にも、日本共産党が深く負っていることは明らかである。
 いまこそ日本共産党は、自らの歴史的総括を行い、帰国者およびその家族の安否調査および日本への帰国意思の確認等を求めるべく、先頭に立って行動すべきであろう。だが、日本共産党は88年に超党派で結成された「日本人妻自由往来促進議員連盟」にもだれ一人加入せず、この問題の解決に向け何の行動もとらなかったばかりか、責任を追及されるや「あれは人道目的だった」と開き直る始末だ。
 特に現共産党の最高幹部であり、66・68年の日本共産党訪朝団にも参加し、帰国事業の再開に先頭に立って尽力していた不破哲三議長は、その責任を党員の前だけでなく、国民の前にもはっきりと示す義務があるはずだ。



 
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