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陳 述 書
2004年3月22日
東京地方裁判所民事第47部D係 御中
氏名  柳  原  滋  雄
1 私の経歴
 私は、1987(昭和62)年に早稲田大学法学部を卒業後、編集制作会社などを経て、1993(平成5)年11月から社会新報編集部(日本社会党機関紙局)で記者として仕事をするようになり、1996(平成8)年末に退職して翌年(平成9年)に独立しました。以来7年余り、フリーランス(自由契約)で記者活動をしております。
 社会新報在職中は、カンボジアPKOに選挙監視要員として参加した経験を綴った『カンボジアPKO体験記−日本人選挙監視要員41人の1人として』(社会新報ブックレット、1994年1月5日発行)を執筆したほか、社会的に弱い立場におかれた在日外国人の人権問題に関する取材などを中心に活動してきました。

2 北朝鮮問題に関心をもった経緯
(1) 私が北朝鮮問題に最初に関わったのは、北朝鮮帰国事業で彼の地に渡った日本人妻らが、1997(平成9)年秋に初めて祖国への里帰りを許され、マスコミでも取り上げられたことから興味深いと思い取材したのがきっかけです。
 日本のすぐ隣の国であるにもかかわらず、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡った後、40年近くも祖国の土を踏むことができなかったことに驚きを感じると共に、そのような日本人妻を生んだ北朝鮮帰国事業や北朝鮮という国に関心を持ち、同年11月8日に成田空港で行われた日本人妻代表による記者会見や、同月13日に渋谷区代々木にある青少年オリンピックセンターで行われた記者会見及び送別会にも足を運んで取材しました。
 また、私は、自ら訪朝した際の体験を綴り在日朝鮮人の帰国熱を煽ったとされる『38度線の北』(新日本出版社、1959(昭和34)年5月17日発行)を書いた寺尾五郎氏(1999(平成11)年8月21日死亡)の自宅を訪問したほか、1959年の北朝鮮訪問取材団として現地を訪れた記者ら(共同通信、読売新聞)のその後の消息を調べて電話取材を行うなどしました。さらに、北朝鮮や北朝鮮帰国事業に関する情報を収集するために関連書籍を古本屋などをまわって買い集めました。

(2) 1998(平成10)年秋には、北朝鮮の圧政に耐えかねて国外に逃れた一人の脱北者の男性、金龍華(キム・ヨンファ)氏に、金氏を支える市民グループの紹介により、長崎県の大村入国管理センターで初めて会いました。私は、金氏から、脱北以来の苦労と脱北者の置かれた悲劇的な状況を聞き、以来、金氏の強制送還を阻止するための支援活動に加わり、金氏の政治難民申請や不認定に対する不服の裁判などに協力しました。そんなことから、金氏が2000(平成12)年3月に大村センターから仮放免され、2001(平成13)年に韓国に帰順した後も、現在に至るまで、親しき友好関係を続けております。
 金氏が韓国に帰順してから半年くらい経った、2001(平成13)年夏に、私が訪韓した折、同氏から脱北手記を翻訳して日本で出版してくれないかと依頼されました。その手記は、金氏が1988(昭和63)年に北朝鮮を脱出してからの十数年にわたる苦難の歴史が綴られており、手渡された手記も膨大な量でしたが、私自身が編集や監修作業にかかわりながら、『北朝鮮から逃げ抜いた私』(毎日新聞社、2002年12月15日発行)と『ある北朝鮮難民の告白』(窓社、2003年3月1日発行)の2冊に分けて出版を行いました。

(3) これらの書籍の出版を通じ、私は一層、北朝鮮を逃れてきた人が中国の大地でどのように苦労し、また亡命先を求めてどれほど辛酸をなめる苦労を重ねているかなど、脱北者のおかれている実態を知ることになりました。例えば、中国に潜伏している脱北者は、言葉をしゃべると中国人でないことがわかり北朝鮮に強制送還されるため、口がきけないふりをして物乞いを続けて命を長らえたり、女性の場合は、北朝鮮に送り返されたくないばかりに、体を売るなどして「奴隷」のような生活を余儀なくされるケースが数多くあるとのことでした。
 また、金氏の話によると、北朝鮮では日本からの帰国者も悲惨な暮らしをしているということであり、私がそれまでに収集した資料に加え、実際に脱北し十数年にわたり辛酸を舐めてきた金氏の口から直接語られた生々しい話に、北朝鮮帰国事業で彼の地にわたった9万3000人もの人々の置かれた悲惨な現実に対する認識を深めました。

(4) このような経過から、私は、当初は拉致問題よりむしろ、北朝鮮帰国事業のほうに関心があったのです。

3  本書執筆の動機
  2002(平成14)年9月17日に小泉首相が北朝鮮を訪問し、その際、北朝鮮側が工作員による日本人拉致の事実を認めるという衝撃的なことが起こりました。日本人拉致問題については、それまでにも北朝鮮の仕業ではないかということで度々テレビや雑誌で取り上げられたこともありましたので、詳しい調査や取材などをしたことはないものの、私も聞きかじる程度には認識していました。
 小泉訪朝後間もなくして、以前からの友人であった海野氏から、小泉訪朝で北朝鮮に対する関心が高まっているから北朝鮮問題を扱った本を書いてみないかという話を持ちかけられました。2人で打ち合わせを重ね、拉致問題について日本共産党が小泉訪朝の前後でその態度を豹変させ、北朝鮮側が拉致の事実を認めたことが自分の功績であるかのような宣伝をしている欺瞞的な体質や、北朝鮮帰国事業で中心的役割を果たした日本共産党が、帰国者の置かれた悲惨な実情が明らかになった後も何ら救済のための行動を起こさず、政治的・道義的責任も認めようとしない姿勢を批判する内容の本を出版することにしました。
 私は、フリーランスになり、1997(平成9)年12月に宝島社が出版した『共産党宣言』という本の制作に関わった際、元赤旗記者に取材する中で、元赤旗記者の口から語られた話から、日本共産党の閉鎖的体質や他者の批判を受け入れない独善的な体質を知りました。以来、同党の言動に注目して、『しんぶん赤旗』を継続的に購読するなどしている中で、拉致問題に関する日本共産党幹部の発言が、小泉訪朝前後で180度変わってしまっていることを感じていましたし、前述した日本人妻の里帰りの取材や金龍華氏への支援活動をする中で、日本共産党が北朝鮮帰国事業を積極的に推進していたことや、その後金氏のような脱北者に対し何ら救済の手を差しのべていないことについても知っていましたので、海野氏との打ち合わせの結果、原告のこのような態度を批判する本を出版することになったのです。

4 帰国事業について
(1) 本書執筆にあたり、永田町の国立国会図書館で改めて資料収集を行いました。国会図書館では、北朝鮮帰国事業を当時熱心に煽ったとされる日本共産党と日本社会党(現・社会民主党)の機関紙を年代順に読み込みました。とりあえず1958(昭和33)年から3年分くらいの新聞を数日かけて閲覧したところ、特に日本共産党は、北朝鮮帰国事業の実現に向けて、連日のようにアカハタで報じ、北朝鮮帰国事業の始まった1959(昭和34)年だけでも40回以上にわたって1面の記事で取り上げるなど、強力に推進していました。一方、日本社会党の機関紙『社会新報』は、1959年の十大ニュースとしても取り上げていないなど、最初のころはほとんど報道らしきものもなく、対照的でした。
 また、赤旗を見ているなかで、帰国事業が始まった年の冒頭(1959年2月)に、日本共産党は宮本顕治書記長(当時)を団長とする訪朝団を派遣し、帰国事業の実現に向け、朝鮮労働党との間で共同コミュニケまで発表していた事実を知りました。同党はその後も数度にわたって訪朝団を派遣しており、これは、日本の他の政党と比べても、突出して早い時期に北朝鮮と多くの交流を重ねていたことを証明するものでした。
 このようなことから、私は、日本の政党として、日本共産党がもっとも帰国事業を推進した政党であるとの認識を強めるとともに、2002(平成14)年10月21日付け産経新聞の「『地上の楽園』掲げた帰国事業 日本共産党が陰で主導」という記事を読んで、日本共産党が帰国事業を熱心に推進したとの論調に、一般紙も私と同じ認識に立っていることを知り、私の考えが間違っていないことを確信しました。
 その他にも、日朝協会新潟支部事務局長を務めるなど日本共産党員として北朝鮮帰国事業にかかわった佐藤勝巳氏の書いた書籍や雑誌、北朝鮮帰国事業の実態や北朝鮮の悲惨な実情を描いた多くの書籍も見ましたし、色々と資料を見る中で、前述した『38度線の北』を書いた寺尾五郎氏も、実は日本共産党員であったことを発見しました(1967(昭和42)年に除名)。これら膨大な資料から、私はますます、北朝鮮帰国事業と日本共産党の関係は深いものであるとの認識を強めました。

(2)北朝鮮帰国事業はご存知のとおり、1959(昭和34)年12月から始まった在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業です。途中3年ほどの中断期間をはさんで、1984(昭和59)年までの四半世紀の間に9万3000人が帰国しました。中には日本人配偶者1800人も含まれています。
 帰還事業とはいえ、帰国した在日朝鮮人の9割は現在の韓国地域を出身とする人々でした。なぜほんとうの祖国でもない北朝鮮に帰ったかといえば、当時、日本で民族差別が強く、まともな就職もできず、子供の教育問題に不安を感じる人が多かったためです。そうした中で、北朝鮮に行けば、学校に行くのも無料、医療費も無料、社会的な差別もなく、北朝鮮は「千里馬(チョンリマ)」の勢いで発展しているとの夢のような言葉を与えられ、いうなれば多くの人が騙されて彼の地に渡ったのです。
 当時、在日朝鮮人の存在は、日本の治安当局においても懸案事項となっており、日本政府としても邪魔な人たちは帰ってもらったほうがいいとの発想が根幹にありました。一方、当時の日本共産党を中心とする左翼勢力においては、同じ共産主義国の北朝鮮に多くが帰還するということは、資本主義に対し社会主義が優位であるということを宣伝するためのまたとない機会でした。そうした多くの利害がからみつき、この事業が推進されたことは事実です。
 ところが、現地の北朝鮮は、事前に宣伝されたようなバラ色の国ではけっしてなく、帰国した日本人配偶者はその後、一度も日本に里帰りする機会を与えられなかったばかりか(97年の一時帰国者は限られた模範党員)、多くが消息を絶ったままです。昨今、そうした無念を抱える人々の一部が、脱北者として中国各地をさまよい、日本に極秘帰国する例が報道されていますが、騙されて彼の地に渡った人々にとっては、北朝鮮帰国事業とは結局、自分の人生を狂わされた元凶だったといっても言いすぎではないと思います。

(3) 私がこの問題に着目したのは、上記のように多くの人命に影響を及ぼした「人道」と称する事業に対し、その最大の推進力となった日本の左翼勢力が、その後何の責任もとろうとしていないことに怒りを覚えたからです。
 当時の左翼勢力を政党名であげれば、日本共産党と日本社会党ということになりますが、この事業に朝鮮労働党の「兄弟党」としてもっとも親密に関係したのは日本共産党であり、そのことは多くの関係者も指摘する歴史的事実です(ちなみに、日本社会党と朝鮮労働党との関係は、「兄弟党」という言い方はしません)。当時、ソ連を盟主とする「国際共産主義運動」(=世界に共産主義を広めようとする革命運動)の全盛期であり、仮に北朝鮮が共産主義国でなければ、日本共産党がこの事業をこれほど熱心に推進することはありえませんでした。
 しかし日本共産党は、1991(平成3)年に盟主であったソ連が崩壊し共産主義思想が誤りであったとの認識が一般的に広まった後も、自らの主義主張に誤りはないとの無謬性にこだわり、帰国者の置かれた悲惨な実情が広く知られているにもかかわらず、帰国事業の「結果責任」を何ら取ろうとしなかったばかりか、自らの責任追及につながるのを恐れて、北朝鮮帰国者救済のための市民運動にかかわっていた善意の党員である萩原遼氏が「元赤旗記者」の肩書で講演することを自分たちには関係ないとわざわざ宣伝していたのです。
 私は、このような日本共産党の姿勢に怒りを覚えました。これは、日本共産党などの宣伝を信じて北朝鮮に帰国していった人々に対しても極めて無責任な行為だと率直に感じました。
 私はそれまで、同党は統制された厳しい組織ではあるものの、日本において「批判政党」として不可欠の存在であり、とかくお金の問題や政治的取引などダーティーな面のある政治の世界の中で、ある意味清潔なイメージの政党であると一定の評価をしていたのですが、上記のような事実を知るにつれ、私の評価は誤りであったと気づきました。ましてや、同じジャーナリストとして、日本共産党が萩原氏に対して取った対応は、帰国者救済活動に対する妨害に等しく、絶対に許すことができませんでした。
 私は、このように国民の目を欺き続けている同党の“真実の姿”を、世に広く知らしめるべきであると強く感じましたし、ジャーナリストとして、一般の国民に広く情報を提供し、批判することが公の利益に資すると考えたのです。

(4) 本書執筆に当たって、私は日本共産党の当時の機関紙をほぼすべて直接確認したことは前述のとおりですが、機関紙の他に月刊誌『前衛』なども見ましたし、多くの北朝鮮関連の単行本に目を通し、雑誌記事なども検索しました。日本共産党と同様に帰国事業を推進した日本社会党の「社会新報」にも目を通しましたが、社会新報で帰国事業のことが本格的に取り上げられるようになるのは、開始より10年以上経ってから後のことです。
 これらの調査活動を通じて判明したことは、当時の日本共産党の機関紙誌が、北朝鮮をまるで「地上の楽園」のごとく描き、報じていたという厳然たる事実です。確かに「地上の楽園」の語句を多用したのは、日本共産党側も主張するとおり朝鮮総連でしたが、「地上の楽園」というキーワードを何度使ったという問題ではなく、実態として、日本共産党もまさに北朝鮮がバラ色の国であるかのごとき描き方をした宣伝を繰り返し行い、まさしく「地上の楽園」という宣伝の片棒を担いだ事実にはなんら変わりありません。北朝鮮を礼賛し美化したという意味では、本質的には、朝鮮総連も日本共産党も全く同じなのです。

(5) また、これらの調査活動の中で、帰国事業が始まって2年後の1961(昭和36)年には帰国者の数が激減した事実を知り、どうして減ってしまったのかと疑問に思っていろいろと調べてみました。
 調べたうち、佐藤勝巳氏が『諸君!』(昭和63年5月号)や『文藝春秋』(平成9年12月号)で書いているところによれば、現地から日本へ手紙が届くようになり、そこには帰ってくるなとの暗号が書かれていたため、それが在日社会に口コミで広がっていったという説明でした。つまり、現地では、日用品にすら困る現状にあり、粗末なわら半紙の便箋に、生活用品やお金を送れと無心する手紙ばかりが届くようになり、現地の生活水準が日本よりはるかに低いことがわかったということなのです。他にも調べてみると、佐藤氏の著書の他にも北朝鮮での生活の悲惨さを伝える帰国者からの手紙を紹介した書籍がいくつもありました。また、韓国系の団体である在日本大韓民国居留民団(民団の前身組織)の機関紙『民主新聞』などにも北朝鮮の悲惨な実情を伝える帰国者からの手紙が紹介されていました。
 確かに、帰国しようとする人にとっては、日本での差別や貧困などの苦労から解放されたいとの気持ちで、生活の安定や平等な社会という夢を北朝鮮に託しているわけですから、ほんとうに北朝鮮が人生を託すに値する国であるかどうかの不安があり、情報収集に真剣にならざるをえない面があったでしょうし、上記のような手紙が北朝鮮の帰国者から届けば、帰国を躊躇するのも当たり前ですから、帰国者が激減したことに納得がいきました。

(6) 当時の朝鮮総連幹部の中でも、自らの訪朝体験を通じて、北朝鮮の欺瞞的体質をすでに見破って書物にまでした人もいました。1962年に『楽園の夢破れて』(全貌社、1962(昭和37)年3月20日発行)を出版した関貴星氏がまさにそうでした。関氏は、もともと北朝鮮帰国事業を推進する側に立っていた人物で、日本共産党と共に北朝鮮帰国事業を推進した日朝協会の岡山県副支部長まで務めました。しかし、訪朝団の一員として訪朝した際、先に北朝鮮に帰国した友人に会おうとするものの現地で納得のいく説明もなく会わせてもらえなかったことなどから、この国の体制に疑問を持つようになり、関氏が実際に見聞した北朝鮮の厳しい実情を暴露する上記書籍を出版したのです。今となっては、彼の書物はほぼ100%正しかったことが明らかになっています。関氏が続編の『真っ二つの祖国 続・楽園の夢破れて』(全貌社、1963(昭和38)年7月10日発行)で、「当然ながら、『楽園の夢破れて』は、驚くべき反響を巻き起こし、好むと好まざるとにかかわらず、私は賛否交々殺到する反響の渦の中にしばしば立ち往生するほどであった」と書いていることから分かるとおり、前著の『楽園の夢破れて』は、当時、広く読まれていました。これだけ反響が著しかったというのですから、この本を原告が目にしていなかったことはありえません。
 そして、関氏は、続編のまえがきにも、「北朝鮮社会の現実は、けっして地上の楽園ではない。それは非人道的奴隷社会であり、共産主義という独裁と収奪の野蛮な社会であり、日本からの帰国者は飢えと寒さ、そして衣料品や生活物資の欠乏、いや、生きる一切の自由を奪われて帰国者は泣いていた」と書いているように、事実に立脚した正しい指摘をすでに1962、3年の時点で行っていたのです。

(7) 一方、日本共産党は、自らの党員を日朝協会や帰国協力会に送り込んでおり、そういった北朝鮮の否定的な評価を裏付ける情報を収集できる立場にありました。また、朝鮮総連の幹部の多くは、元々は日本共産党員ですから、その意味でも、原告は日本において、北朝鮮に関するもっとも正しい真実を知り得る立場にありました。さらに、同党は、度々訪朝団を派遣していたのですから、自ら事実関係を調査・確認することができたはずです。
 したがって、原告は、上記のような帰国者からの手紙や関氏の書籍などの内容も当然認識していたはずですし、当然の責任として、真実を確かめるべき立場にあったと思います。しかし、自らの共産主義が正しいとの「色眼鏡」でしかものを見れない原告は、同じ共産主義思想に立つ北朝鮮を礼賛する宣伝をし続け、真実に目をつぶったわけです。それどころか、帰国事業をその後も延々と推進し続けていました。
 その結果、多くの無実の庶民を「地獄の凍土」へ送り、人生を狂わせました。あのとき、日本共産党が少しでも真実を正確に伝えようとの努力をしていれば、犠牲者はこれほど多く広がることはなかったはずです。そのことへの政党としての「結果責任」を今もってまったく認めず、かえって自己正当化しようとする同党の態度は、あまりに無責任であり、独善的であるというほかありません。

(8) 私は取材の最終段階で、帰国事業にかかわった人の直接の肉声をとりたいと思い、当時、日本共産党員であり、その誇りを胸に秘めて新潟県帰国協力会という帰国事業の“最前線”で仕事をしていた小島晴則氏を新潟市の自宅に訪ね、取材しました。小島氏は現在、「横田めぐみさん等日本人救出新潟の会」の会長として、拉致被害者の救済運動の前線で活躍されています。小島氏の取材を仲介してくれたのは、同じく拉致被害者の救出活動に尽力している兵本達吉氏でした。
 私は小島氏へのインタビューで、北朝鮮帰国事業の目的が、共産主義という「幻想」を信じた故だったとの発言を確認しました。すなわち、本書のインタビュー部分のタイトルにあるとおり、この事業は「共産主義思想の幻想がもたらした悲劇だった」ということです。しかも小島氏のそうした活動の動機は、北朝鮮に送ってしまった多くの帰国者への懺悔の気持ちからということでした。この事業に身を投じていた小島氏自身がそのように断言されたわけですから、「私の本書企画の意図は最終的に証明された」とそのとき感じました。
 小島氏は、帰国事業を通し、共産主義の偉大さを証明するつもりで行動していたと語りましたし、また日本共産党内でもそのような認識であった旨証言しています。だとするなら、共産主義の過ちが明らかになった現在、原告はこの責任を総括し、被害者に対しては謝罪すべきであろうと思いました。

(9) 以上のとおり、北朝鮮帰国事業問題、日本人妻問題において、原告が大きな責任を有していることは明らかです。
 私は、日本共産党が、北朝鮮帰国事業をあれだけ積極的かつ中心的に煽って多くの在日朝鮮人と日本人妻を地獄ともいうべき北朝鮮に送り込んだ重大な結果責任を負っているにもかかわらず、その後も何ら救出活動を起こそうとしないばかりか、救出にかかわる党員の活動を妨害するかのような非人間的な態度をとっていることを指して、「不作為の罪としての殺人加担行為に等しい」と糾弾しました。多くの騙された被害者の心情を思うとき、このような表現でもまだ足りないのではないかとさえ考えていました。しかも原告は最近になって、1968(昭和43)年の訪朝の時に北朝鮮の異常な変貌に気づいていたといっていますが、当時はそのような事実を明らかにすることなく、中断していた北朝鮮帰国事業の再開を訴え続けていたのです(その後、71年に再開)。このような原告の欺瞞的な態度は到底許されるものではありません。
 今も多くの帰国者、日本人配偶者らが、望郷の念にかられ、余命いくばくもない生を彼の地に長らえている現実を考えるとき、原告の無責任極まる態度は、日本国民からもっともっと糾弾されてしかるべきものだと思います。

5 拉致問題について
(1) 本書執筆にあたり、拉致問題についても取材を行ないました。
 調べるにつれ、私は日本人拉致と帰国事業の2つの関係は、まったく別の独立した出来事ではないと感じるようになりました。なぜなら帰国事業で北朝鮮に帰った9万3000人はその後、北朝鮮によって実質的な「人質」となったからです。つまり、帰国者の存在が朝鮮総連を通じ、親族が多くのカンパをした者については北朝鮮国内で優遇され、逆の場合は冷遇されるといった、北朝鮮国家の外貨獲得のための「道具」にされただけでなく、帰国事業で使われた新潟港と北朝鮮との間を往復する客船が、工作員を運ぶ際の運搬手段となったり、工作の指示を下すための密室となった事実も知りました。そして、親族が北朝鮮に帰国している在日朝鮮人が、帰国した親族の安全と引き替えに拉致工作に協力させられているという疑いもありました。その結果、日本人拉致問題にまで発展していった可能性もあるわけです。つまり、北朝鮮帰国事業というものがなければ、日本人拉致事件も発生しなかったのではないかと私は思うようになりました。
 その後、取材を続けてきましたが、他の識者からも同様の話を聞くことができましたし、私のこの認識はある意味で正しかったようです。

(2) 私は、拉致問題の取材をする中、日本共産党の元国会議員秘書で、拉致問題の解明に努力していた兵本達吉氏の存在を知りました。そこで、2002(平成14)年10月末、兵本氏に対面取材を申し込み、埼玉県のご自宅で話をうかがいました。
 兵本氏から、拉致問題においても、日本共産党が、調査に熱心であった兵本氏を警察のスパイという名目で「査問」し「除名」したことなどの赤裸々な話を聞き、また、除名以前にも拉致調査を熱心に行っていた兵本氏の調査を、経費を精算しないなどの行為で「妨害」していたとの話も聞くことができました。このような話を聞いて、私は、拉致問題に関し真実を探求しようとする党員に圧力を加えるやり方は、先の帰国事業における党員へのそれと同一であると感じました。これは原告の体質的な問題であると考え、一層、怒りがこみ上げてきました。

(3) 兵本氏の取材の前に、兵本氏が雑誌『正論』(平成11年1月号、同14年6月号)、『文藝春秋』(平成12年3月号)などに書いていた記事はひと通り読んで行きました。その中で述べられていた日本共産党を除名された経緯などについても事前に読みましたので、取材では、こちらが疑問に思っていることを補充的に質問しました。それらの質問に対する兵本氏の回答は極めて具体的であり、かつ自信にあふれており、信憑性は高いと感じました。
 また、兵本氏が雑誌に書いた中では、拉致問題の解明でどのような妨害を受けたかについての具体的な記述はあまり見当たらなかったので(後の手記では書かれています)、取材ではその点などを詳しく聞くことにしました。実際、兵本氏に妨害内容についての質問をぶつけると、前述のとおり出張費の精算をしなかったことや北朝鮮の高官に会おうとしたのを引き止められたこと、同じことについて何度も報告を求められたりしたことなどを具体的に挙げられました。その内容は本書で記したとおりですが、兵本氏に対し日本共産党が行った仕打ちは、紛れもなく「妨害」そのものだと感じました。
 そして、「査問」を受けた際の光景についても、雑誌に書かれていないような事実を教えてもらい、本書に書くことにしました。
 兵本氏は会えばわかりますが、ざっくばらんで豪放磊落な関西人であり、兵本氏いわく共産党員としては珍しいタイプだということでした。「君、共産党は恐ろしいぞ、社会党とはケタが違うぞ」と言われたことがとても印象深く、今も昨日のことのように覚えています。

(4) また、兵本氏への取材によって、戦後の日本共産党がまさしく在日朝鮮人の助力によって再建された事実を知りました。戦後間もないころには、日本共産党の中央幹部の中に複数の在日朝鮮人の名が見られ、在日朝鮮人は日本共産党の中で有力な一角を占めていたそうです。また、火炎瓶を投げるなどの暴力闘争に関わったのも多くが在日朝鮮人の党員であったということでした。さらに朝鮮総連の幹部のほとんどが、もともとは日本共産党員であったという事実も知り、これが北朝鮮政府と日本共産党の親密ぶりの「背景」だったのかと合点がいきました。取材後に資料でも確認しましたが、まさに兵本氏から聞いた話のとおりであり、本書では章を設けてその事実を記述しました。
 拉致問題については、小泉訪朝により北朝鮮が拉致の事実を認める以前、日本共産党の委員長であった不破哲三氏が、国会質問で当時の森首相に対し、「拉致は疑惑の段階だからそれにふさわしい交渉をすべき」という発言したことに対し、そのテレビ中継を見ていた拉致問題関係者が皆一様に憤ったとのエピソードを教えてくれました。私が兵本氏を取材した2002(平成14)年10月ころ、原告は、「日本政府に北朝鮮による拉致疑惑の存在を最初に認めさせたのはわが党である」とのプロパガンダを盛んに行っていましたが、実質的にその調査を行ったのは目の前にいた兵本氏だけだったのであり、その兵本氏をスパイ名目で切っておきながら、自分の都合のいいところだけ宣伝する日本共産党の姑息さに怒りを覚えました。
 そして、兵本氏は、不破氏が途中で拉致解明に消極的になった理由として、本書にも書いたように、当時、朝鮮労働党と関係修復の動きがあったことや世間的に共産主義国であることが知られている北朝鮮が拉致事件を引き起こしたとなると社会主義や共産主義のイメージが悪くなるといったことなど、3つの事実を挙げました。そのうち朝鮮総連との関係復活の動きは、その後自宅に戻って、赤旗記事を検索する作業ですぐに証明されました。
 日本共産党は、自らが積極的に推進した歴史があるにもかかわらず、北朝鮮帰国事業によって帰国した在日朝鮮人や日本人妻の窮状に対する対応について極めて無責任かついい加減であることについては既に述べてきたとおりですが、拉致問題についても都合よくその姿勢を変遷させ、拉致の事実が明らかとなるや臆面もなく自らの功績であるかのように宣伝してきた事実を、兵本氏という拉致調査に実際に取り組んだ当事者の口から直接聞き取ったことにより、日本共産党という政党の体質が一層浮き彫りになったと感じました。
 私は、それまでにも拉致問題について一般紙の報道や書籍、雑誌などの客観的な資料を見てはいましたが、兵本氏の話を聞いたことで、本書の拉致問題に関する執筆は、信憑性の高い兵本氏の証言などを中心に構成することにしました。そして、兵本氏の手記に対する反論を含め、日本共産党側の主張内容については、すでに党機関紙『しんぶん赤旗』で連日のように報道されていましたのでそれを参照することにしました。

6 本件書籍で引用したアカハタ記事等
(1) 巻末に資料集という形でアカハタ記事等を掲載することを提案したのは私です。そのように提案した理由として、まず本書は、日本共産党の政治姿勢や言動に対して批判を加えるものですから、まさに私が何を批判しているのか、批判の対象を読者にも正確に見てもらうことが不可欠だと考えましたし、日本共産党から、「恣意的な引用だ」などと批判されないようにするためにも、公正な形での批判・論評であることを示す上で記事の全体を示す必要があると考えました。一方で、そうするとどうしても比較的長い引用となるのですが、それを本文中に取り込んでしまうと、本文が分断されてしまって逆に私の言いたいことが伝わりにくくなるデメリットがありました。その調和に私自身悩んだのですが、収集した関連書籍の中で『帰国船 楽園の夢破れて三十四年』(文藝春秋発行、1995(平成7)年3月20日発行)という本が同様の形態をとっていることにヒントを得、本文の内容を補完し、資料的に裏付けるもののうち、特に重要なものを本文との関連性が分かるように整理した上で、巻末にもってくるという構成を考えました。

(2) 本件の資料がアカハタや前衛からの引用であるため、日本共産党は機関紙などで「大量盗作」などと決めつけて騒ぎましたが、その感覚は私には理解できませんし、一般人の感覚とは異なるものだと思います。私も政党機関紙の記者をしていたことがあるので特にそう思うのですが、日本の民主主義の骨格ともいえる「三権分立」の一翼を担っている立法権に対し、直接的影響をもつ公的な政治勢力である一つの政党、しかも多数の国会議員や地方議会議員を抱え、日本の全有権者に周知されている政党が、自らの中央機関紙上において発表した見解や党幹部の発言などについて、小説家のそれや一般の書き手が書いた作品などと同列に論じていることには違和感を覚えます。私は政党の見解などは、それに対する批判も含めて広く国民に対し提供されるべきとの認識を持っていましたし、今でもその判断が間違っているとは思いません。言い換えれば、政党として社説や見解などを出す場合は、それらが広く引用された上で社会から批判の対象とされることを覚悟した上での行動であるはずですし、私のようなジャーナリストも含め、国民一般に自由に批判する権利が与えられるべきと考えているからです。

7 本件書籍の反響
(1) 本件書籍の内容が、正しい指摘であるとの評価は、既に多くの人からいただいています。大手出版社の北朝鮮問題を専門とする編集者からも、「いい本だった」との感想を得ております。日本共産党の実態がよくわかると言ってくれた方も無数におります。

(2) 一方、本件書籍を執筆し出版した2002(平成14)年末ごろから、正体不明の者たちからの尾行、張り込みが断続的に行われるようになりました。この状況は今も続いています。
 もともと日本共産党は、本書があまりにも同党の体質を射抜いているために反論不能に陥り、党員への体面を保つためのポーズとして、名誉毀損や著作権法違反にかこつけて提訴してきた面が大きいと思います。
 同党は、本書をペンネームで執筆したことをさし、「謀略だ」「正体隠しだ」と機関紙上で騒ぎ立てました。裁判所もご存知のとおり、第3回口頭弁論(2003(平成15)年9月2日)において、原告代理人の小林亮淳氏(日本共産党法規対策部・副部長)が、本件とはまったく関係のない別訴事件で被告となっているのが私と同一人物なのかどうかについて延々と質問し、同党は法廷で取得した情報をもとに、『しんぶん赤旗』に私への誹謗中傷記事を掲載しました。
 さらに、同年7月22日には、別訴事件を取材していた私のもとにわざわざ、『しんぶん赤旗』の社会部記者である「山本豊彦」と「森近茂樹」と名乗る2人の記者が現われ、私を取り囲み、100メートル以上にわたってまとわりついて執拗に未来書房について問いただすなどの“付きまとい行為”を行いました。

8 最後に
(1) 私はこの本において、一行ともウソなど書いておりません。本来、私は物書きとして、歴史的事実に立脚し、政党という極めて公的な性質をもつ原告を公益的・公共的見地から批判したにすぎません。そうした指摘に対し、日本共産党は本書の内容面についてほとんど反論できないにもかかわらず、本件提訴という手段に訴えました。
 本来、言論には言論をもって対決すべきところ、本書の発行差し止めを求めるなど、言論弾圧の手段で応じてきたわけです。日本は、原告が望むような共産主義社会などではなく、幸いなことに自由主義社会であり、事実に基づく批判は言論の自由としてその権利が保障されています。私はジャーナリズムの本道にのっとり、歴史的事実をもとに、日本共産党の北朝鮮問題における無責任な行動に批判を加え、論評したにすぎません。このような批判が、もしも名誉毀損になるとしたら、日本における言論の自由は死滅してしまうことになります。

(2) つまるところ、日本共産党は、相手の批判に政党として真摯に向き合うのではなく、むしろ批判者である私を貶め、同党への批判活動を封じるために訴訟を“利用”しているにすぎないと言わざるを得ません。私は言論活動に携わる者として、このような不当な妨害を決して許すことはできません。
 裁判所におかれましては、真実を見極めていただいた上で、公正なご判断を下されるようお願い申し上げます。

以上



 
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