日記

2008/10/06(Mon)
『池田大作の軌跡V』を読む
 潮出版社から出たばかりの『池田大作の軌跡V』に目を通す。創価学会的には有名な昭和31年秋の山口開拓闘争の歴史が綴られている。若き日の池田名誉会長が作戦の全責任を担い、山口県の会員拡大に取り組んだ戦いである。さらに舞台はヨーロッパ、アメリカ、東京・信濃町とつづき、最後に公明党の創設秘話が記されている。
 29歳の池田名誉会長が大阪で逮捕・起訴された冤罪事件として知られる大阪事件。その刑事裁判の一審判決が出たのは、昭和37年1月25日のことだった(検察側は控訴せず、そのまま確定)。公明党の前身である公明政治連盟(政治団体)発足の正式発表はその翌日、東京で開かれた本部幹部会の席だったという。公明党の「出自」が、鮮明な形で浮き彫りにされている。庶民のただ中に入り、民主主義制度のもとに、政治変革に立ち向かう。その過程で権力が牙を剥き、責任者を牢獄にまで入れたが、その「無実」が裁判で証明されたとき、公明党の歴史は正式スタートした。つまり、権力とのあくなき闘争のさなか、同党は創設されたことになる。
 立党の原点はあくまで、庶民・大衆のために。これは権力との対比ともいえる。権力を権力者自身のためにではなく、庶民・大衆のために使う政治を実現しようとしたわけである。
 同書によると、戦後、雨後のたけのこのように誕生・復活した新興宗教のなかにも、政界進出を試みた教団が幾つかあったようだ。その最たるものが、天理教である。明治時代に広まったこの古い新興宗教団体は、昭和20年代、衆院・参院に多くの“信者議員”を輩出した(所属政党は複数にまたがる)。だがそれも、「理念の欠如」と「創価学会の大折伏の始まり」とともに、後退を余儀なくされた。仮に天理教の政治進出が成功していれば、新たに「天理政治会」という政治結社ができた可能性も書かれている。創価学会の公明政治連盟の“天理教版”の構想だったともいえよう。
 結論として、戦後日本の宗教団体において、「政党」をつくるほどに民衆に浸透した教団は、創価学会以外にはなかった。その後の公明党の歴史は紆余曲折はあったものの、いま現在の戦いも、その「道程」にすぎない。
 話は変わるが、筆者の曽祖父は天理教の信者だった。福岡県の天理教教会で入会し、活動していたようだったが、祖父の代になって、「こんな宗教はつまらん」ということで改宗したと親戚の者が語っていた。それだけに、天理教の政治進出の足跡なども興味深く再読した。
 世界において、「宗教政党」の存在は珍しいものではない。日本ではほかに前例がないから、公明党の存在だけが過度に注目される。公明党が宗教政党であるという理由だけで、昨日、民主党副代表の石井一という政治家(参議院議員)は、「ばい菌」と叫んだ。宗教蔑視もはなはだしい。
 石井一は新進党時代、96年10月の総選挙で兵庫1区から立候補し、対立候補(自民党)にわずか1900票差で辛勝、議席を維持することができた。そのとき石井は、地元の創価学会に熱心に支援を要請し、創価学会の青年部に“肩車”されて支援団体の会合で演説したこともあったらしい。それがなければ「落選」は必至だっただろう。そんな男が立場が変わると“豹変”し、今では、「公明党はばい菌」などと主張しているのだから、自己本位もはなはだしい。石井はかつてその「ばい菌」(石井)から票を恵んでもらっていたのだから、石井本人は、≪ばい菌以下≫の存在ということになろうか。
 話が脱線してしまったが、単行本『池田大作の軌跡』は、第3巻も読みどころ満載である。
2008/10/05(Sun)
民主党「監視隊」の≪違憲性≫を指摘した「佐藤優」氏
 本日発売の月刊「潮」(11月号)に起訴休職外務事務官の佐藤優氏の4ページの論考が掲載されている。タイトルは、「信教の自由を侵害する政治家の『不見識』」というもので、9月4日夜に読売オンラインなどが報じた民主党による「監視隊」構想について、信仰人の立場から批判を加えている。これは、民主党の代表代行の菅直人と副代表の石井一が創価学会の会館を監視する必要があると述べたことに対する意見表明といえる(その後、読売のネット上の記事は突然削除された)。
 佐藤氏はまず、信教の自由の「枠組みを守ることこそ政治団体の仕事である」と述べ、菅直人らの発言が、「人類の普遍的な憲法に反する行為」と明言した上で、「責任ある政治家として、軽はずみな発言を撤回した方が民主党の利益にかなうと思う」と指摘している。さらに「今回の『監視隊』の件をはじめ、創価学会に対する弾圧の動きに対しては、他の宗教者も声を上げるべきだろう」とも。
 後半では、創価学会が「自由競争の中で勝負してきた」と分析し、さらに庶民層とともに歩んできた歴史にふれ、そうした役割を肯定的に評価。政治参加したのは当然の流れと紹介し、最後に結論としてこう述べる。
 「キリスト教もまったく同様だが、宗教団体というものは、弾圧を加えられれば加えられるほど、強くなるものだ。宗教の特性とも言ってもよいだろう。私は民主党にも友人がたくさんいる。ただし、今回の民主党の『監視隊』の話や、宗教団体である創価学会に対する弾圧を助長するような動きは、間違っていると私は思う」
 “メダカ社会”とも揶揄される日本社会にあって、同じ信仰人の目線からとらえた極めて「正論」の意見に映る。その意味で、民主党によるここ一連の言動は、「反民主」的行動そのものとさえいえよう。

 ●「監視隊」構想の「石井一」が今度は「ばい菌発言」
 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20081005-OYT1T00437.htm?from=main3
2008/10/04(Sat)
「草の根」の闇6  転落現場の住民は語る
 そもそも私はこの事件について、最初から取材していた人間ではない。女性市議が転落死した「現場」を最初に訪れたのは97年になってからで、事件発生からすでに2年近くが経過していた。取材者としては「後発組」にすぎなかった。現場となったロックケープビルの5階の住人に“飛び込み取材”を試みると、そこに事務所をもつ男性住民が対応してくれた。その際のやりとりは次のようなものである。

――2年近く前の事件のことで恐縮ですが、5階の住民が「キャー」という悲鳴を聞いたと雑誌の記事で読んだので取材でまわっているところです。
 男性 (女性市議の叫び声を聞いた人は)今はいません。もういいでしょう? もう何回となく聞きに来ているから。だってさ、1年以上だいぶ前の話でしょう。
(それでも説得に応じて、共用部分の踊り場へ移動する)
 男性 跡はきれいになくなっている。ぶら下がった感じでついていた。救急車が来たので、初めて気がついたんです。上(5階)から見たとき、(女性は)フェンスの内側に落ちていたので、ああ助かったんだと思いました。そのときはてっきり、職人かなにかが電気工事で落ちたのかと思っていましたよ。まさかここから落ちたとは思わないじゃないですか。
――そのとき何をしていらしましたか。
 男性 私は(事務所の奥のほうで)パソコンゲームをやってたんです。もう一人の子は、こちらの玄関のほうにいたから。
――争ったようなこととかは。
 男性 ないないない(即座に)。鉄板一枚だもん、そこのドアだって。こんなに話しているだけで、向こう側に聞こえるくらいです。コソコソやっている声も全部聞こえちゃうんですよ。すっげえ、反響するもんで、エレベーターの開いた音だって聞こえちゃうから。
――玄関の近くのほうに女性の方がいらっしゃったのですか。
 男性 そうそう。
――その方が「キャー」という叫び声を聞いたわけですね。
 男性 そうです。向こうの建物にいた人も聞いたって言ってましたね。それから車のぶつかるような音が、ドスンとしたんです。

 わずかな時間の立ち話にすぎなかったが、その男性は転落現場の手の跡のあった場所を指し示してくれ、さらに「争った形跡」がまったくなかったことを≪直接証言≫として語ってくれた。さらに、警察の事情聴取にも2回応じたことを伝えてくれた。
 結論として、転落現場において、朝木明代が第三者と争った痕跡は、証言上も、証拠上もまったく存在しない。午後10時の時間帯である。このことは、事件当夜、朝木明代が現場に一人でやってきて、自分で飛び降りようとしたところ、動転してか「キャー」と悲鳴をあげた状況を物語っていた。(つづく)
2008/10/03(Fri)
「草の根」の闇5  議会場で万引きを「自白」していた朝木明代
 1995年7月13日の朝、新聞各紙では、東村山市議会議員・朝木明代が前日、窃盗容疑で事情聴取を受けた事件で東京地検八王子支部に書類送検されたことが報じられていた。87年に東村山市議会議員となって3期9年目、不正追及のクリーンさが市民に受けて磐石な基盤ができたあとに出てきた「草の根」のエースによる“不祥事”だった。地元では一躍注目の人となった朝木は、この日、総務委員会が開かれる部屋へ顔を出していた。朝木の姿を目にした他党の市議が思わず声をかけた。
 「万引きで送検されたんだって?」
 そのとき朝木明代が返答した象徴的な言葉は、すでに多くの人に知られている。
 「なによ、送検されたくらいで。現行犯逮捕もできないくせに。だいたい、品物を取り返しておいて問題にするほうがおかしいわよ」
 これらのやりとりは、その場にいた総務委員会所属の市議会議員や傍聴席にいた市民ら10人ほどに聞かれている。私も数年前、取材で裏づけをとるときに、複数の証言を確認している。
 明代はすでに警察署で3回の取調べを受け、なぜか2回目から突如、アリバイの主張を始めていた。だが、それらの偽装工作は見事に瓦解する。その上で書類送検されたのだったが、それまでのアリバイ主張を自ら否定するような「自白」を、他党議員に対して行っていたわけだった。
 そのとき、総務委員の一人として現場にいた矢野穂積は、朝木の上記の発言を苦々しく聞いていたとの証言がある。矢野にとっては、“下手な役者”が演技上のボロを出すのを見るような気分だったのだろう。この事実は、朝木明代の事情聴取におけるアリバイ工作の裏に、矢野穂積という人物がいたという「構図」を浮き彫りにしている。
 結局のところ、朝木明代は、“踊らされたピエロ”にすぎなかった。罪を率直に認め、アリバイ偽装工作などに手を染めなければ、死ぬ必要などまったくなかった。(つづく)
2008/10/02(Thr)
“デマ続出”の「早川新潮」が28件目の敗訴
 宗教法人「幸福の科学」が「週刊新潮」の記事で名誉を傷つけられたとして、出版元の新潮社などに損害賠償などを求めていた裁判で1日、東京地裁は判決で200万円の賠償を命じた。問題となったのは、2007年1月4・11日号に掲載された「幸福の科学の『集団抗議』におびえる小学校!」と題する記事で、原優裁判長は「集団抗議があったのは事実だが、小学校の多くの関係者がおびえていたということはなく、記事は真実ではない」と指摘した。
 2001年8月に早川清編集長が就任後、判明する限り、これで28件目の敗訴。損害賠償を命じられた総額はすでに「6500万円」に及ぶ。早川氏はいまも“日本ワースト・レコード”を更新中だ。

 【産経ニュース】 http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081001/trl0810012051005-n1.htm
2008/10/01(Wed)
「草の根」の闇4  被害者を加害者に仕立て上げる「行動原理」
 数年前のことになるが、朝木明代が95年6月に万引きを働いた東村山駅前の洋品店を取材で訪れたことがある。電話でアポイントをとり同店に赴いたが、取材対象となった店主は、「やっぱり取材をお断りしようか思っている」と筆者に述べた。それでも説得しつつ駅前の喫茶店で1時間ほど話を聞くことができたが、結局、そのときの取材内容を活字にすることはなかった。当時、店主はすでに5件もの裁判を抱えてきており、これ以上、訴訟ざたはこりごりというのが最大の理由だった。要するに「嫌がらせ」を恐れていた。5件のうち、自ら訴えた裁判は1件、さらに訴えられた裁判が4件ということだった。取材の最後には、「念書」に署名させられた。この取材でご迷惑をおかけすることは決してありません、といった内容だったと記憶している。明らかに「恐怖」の感情が支配していた。
 店主がなしたことはごく当たり前のことにすぎなかった。1995年6月19日、東村山市議会議員であった朝木明代が、同店において1900円のTシャツを金を支払わずに持ち去ろうとした。それを目ざとく見つけた店主が追いかけていって、詰問した。手を挙げさせると、Tシャツはバサリと音を立てて地面に落ちた。店にいた客が“証言者”となり、警察に訴え出た。店主が朝木の万引き行為を目撃したのは、これが2度目だったから、そのときは用心して見ていたのだ。
 その後、朝木明代と矢野穂積は、この小さな洋品店に対し、直接訪問するなどして「お礼参り」的な行動を重ねるようになる。店主が教団とグルになって事件を捏造したなどと何度も吹聴した。さらに自民党の後援会員にすぎなかった店主は、あたかも創価学会員であるかのようなデマすら流された。いずれも、朝木・矢野にとって都合のいい「教団陰謀説」を流布するための内容にすぎなかった。つまり、自分たちこそ「被害者」であることを“演出”するための、手のこんだ≪偽装工作≫だった。
 朝木明代の死亡後、矢野穂積と朝木直子は、この店主に多くの裁判を吹っかけた。店主はごく普通の市民にすぎなかったが、慣れない裁判のために、高額の弁護士費用を支払う羽目になった。店主がしたことはただ一つである。万引き犯を告発した――自分の店が「実害」を受けた悪行を見過ごして泣き寝入りすることを潔しとしなかった。ただそれだけのことである。それでいて、「被害者」は「加害者」に仕立て上げられていった。加害者の罪を消すために、加害者側が自ら仕組んだ行動の結果だった。もうこりごりだ。筆者が取材に訪れたときの、店主から受けた印象はそのようなものである。
 同氏は朝木明代の万引き事件以後も、仕事を通じて複数の万引き犯と接したようだった。一人は警察に突き出した。もう一人は、謝罪し、「買う」といったので許したという。医者の妻だったらしい。「お金がないわけではない。お金で買えばいいのに、と普通の人はみな思う」。朝木明代も同様であったろう。わずか1900円の持ち合わせがないわけではなかったはずだ。
 話は飛躍するが、このように、「被害者」を「加害者」のように見せかけ、逆に「加害者」である自分を「被害者」のように見せかけるのは、サイコパス的人間の≪常套手段≫とされる。サイコパスは一言でいえば、良心の呵責をもたない、野放図な人間のことだ。結論としていうと、一連の東村山デマ事件は、矢野穂積というひとりの人間の「人格特性」をくみしないと、「真相」は決して見えてこない。
 実は、万引き事件については、朝木の事件とよく似たケースがある。最近、ロス移送の決定で話題になっている日本国民ならだれもが知っている人物の起こした万引き事件である。2007年3月、この人物は地元のコンビニ店(神奈川県平塚市)で朝木明代と同じような万引き行為を働いた。盗んだのはサプリメント商品6点、金額にして3632円である。商品がなくなっているとの報告を従業員から聞きつけた店のオーナーが、監視カメラの映像を確認したところ、この人物の犯行が発覚した。店側は警察署に被害届けを提出。一方、この人物は店内の監視カメラで録画されていた歴然たる証拠を突きつけられて、行為そのものはしぶしぶ認めたものの、「忘れていた」などと言い逃れを繰り返し、決して自らの「非」を認めようとはしなかった。最後は、このコンビニ店らを逆に民事提訴するといった行動をとった。コンビニ店がテレビ局に「証拠映像」を提供した行為をつかまえて、肖像権の侵害に当たるなどと難クセをつけ、弁護士を7人も立てて≪被害者≫側への「お礼参り」的な行動に出たのである。
 一方の、朝木明代の万引き事件の場合は、万引きそのものは明代のなした行為だったが、その後の「お礼参り」的行動やアリバイ工作に、矢野が密接に関与していたことはすでに指摘されている。
 彼らに共通する特徴は、@絶対に自分の罪を認めないAありとあらゆる方法を使って責任を回避しようとするB証拠があってもさらに言い逃れを続けるC逆に被害者を徹底的に攻撃する――。さらに「訴訟マニア」であることも一致している。サイコパス的人間は、言い逃れが天才的にうまく、ずる賢い。さらに常人の感覚からすると、驚くほどにタフネスだ。へこたれるということがない。
 矢野穂積と三浦和義の行動を追っていくと、万引き事件における対応ひとつとっても、その「行動原理」は驚くほどに似通っている。(つづく)

【参考サイト】
http://tetorayade.exblog.jp/6706007
http://tetorayade.exblog.jp/7067186
http://tetorayade.exblog.jp/8089039
2008/09/30(Tue)
「草の根」の闇3  「自殺の動機」を必死に隠そうとした「矢野穂積」
 事件から13年すぎた今となっては、矢野穂積は朝木明代の死が「自死」であることをだれよりも深く認識していたと思われる。だが、それを認めることは、あれほど否定していた「万引き事件」を一転、認めることにつながってしまう。自らアリバイまででっち上げて懸命に否定してきた「万引き事件」である。それを認めることは、矢野にとって朝木明代の死を無意味なものにしてしまいかねなかった。そのため、自分が道義的にも一切の責任をとらずに済む唯一の方法は、朝木の自死をあくまで「他殺」であるかのように演出し、自分たちを「被害者」としてアピールし続けることだった。
 要するに、彼らのとった戦法は「攻撃こそ最大の防御なり」、を地でいくものであり、その路線はいまもまったく変わっていない。ただし、その「攻撃」の前に“デマ”という文字が付いただけのことだった。
 当時、事件直後から、矢野は喰いついてきそうなマスコミ関係者に率先して「教団謀殺説」を流すとともに、自らもテレビカメラに向かって、大げさに演技をうった。
 その端的な証明が、テレビの前で泣いてみせるといった露骨なパフォーマンスだった。「朝木さんは殺された」と渾身の演技をしてみせた。朝木直子の前でえんえんと男泣きに泣いてみせることなど、「過激なパフォーマー」となった矢野にとって、なんでもないことだった。直子はこうした矢野の姿にすっかり心をほだされ、母親のことを深く思ってくれていると錯覚したようだ。
 矢野にとってこの涙は、明代の死を悼むというより、自分の身を守るためのものにすぎなかった。宇留嶋瑞郎著『民主主義汚染』では、「矢野の涙声の意味」の小見出しのもと、端的にこう指摘している。
 「矢野が万引きのアリバイ工作に深くかかわり、それが最終的に明代の死につながったことを矢野は強く意識していた――。おそらく、矢野はそれをさとられることを最も恐れた、と。明代が死んだことでもとより、矢野にはアリバイ工作とともに、明代の死の真相についても自己利害をかけて隠蔽しなければならなくなったのである。(中略)矢野の涙は明代のためのものではなく、自分自身を考えるためのものにすぎなかったともいえよう」
 矢野は自分で演技するだけでなく、マスコミ関係者に対しても演技をうった。明代の遺体と対面してまもない9月2日の午前6時の段階で、ジャーナリストの乙骨某に断定的に電話でこう告げている。
 「朝木さんが殺されました」
 まだ、自殺か他殺か、状況はよくわからない段階である。ふつうの人間なら、せいぜいこんな感じで伝えるのではないか。「朝木さんが亡くなりました。原因はまだわかりません。突き落とされた可能性もあります」。だが、矢野は≪明確な意図≫のもとに、上記のように断定的に伝えていた。しかもエサを投げてやれば、すぐに飛びついてくるような相手を選んでいる。
 矢野はその後、ヒステリックなほどに「殺された」を連発。それはいまに至るも変わらない。そこにあるのは、矢野の都合のいい感情の発露だけで、それを裏付ける確たる証拠はどこにもない。
 ふつうに考えて、転落現場となった「ロックケープビル」は東村山駅前に近い場所にある。駅前交番から見ると、ビルの入り口は視野の範囲内ともいう。そんな場所に矢野たちは第三者が朝木明代をなんらかの方法で動けないようにして、ビルに拉致し、5階から突き落としたという説をふれ回っていた。午前2時、3時の時刻ならまだしも、午後10時はまだ人通りの多い時間帯だ。しかも東村山市でいちばん目立つような場所である。常識で考えても奇妙な想像と思われるだろう。本当に人を殺すなら、もっと人目のつかない場所で、なおかつ確実に「即死」する方法をとるのではないか。転落したあと、相手が30分も意識のあるような状況では、犯行はすぐにばれてしまう。とんまな「謀殺者」がいたものではないか。どう考えてもありえない話である。
 それでも、1995年という年は、地下鉄サリン事件に伴う宗教法人オウム真理教の問題で宗教団体そのものが悪者扱いされ、坂本弁護士一家の事件も世の関心を集めていた。そうした“格好の土壌”のもとに、矢野らが発信した教団謀殺説はうまく乗った。それでも、「週刊現代」に対しては、矢野らの情報提供が後でやぶへびの結果となる。
 9月1日の晩、矢野は草の根事務所内において、独りさまざまに思考をめぐらすなかで、その後のストーリーを考えたにちがいなかった。絶対に動かせない第一条件は、事件を「他殺」と印象づけること。そのために、あらゆる材料を“総動員”した。
 例えば、矢野らは2003年に発刊した『東村山の闇』という自著でも、モスバーガー関係者が朝木明代に対して「落ちたのですか」と尋ねる場面について、「飛び降りたのですか」などと記している。実際は、「落ちたのですか」と聞かれ、本人は首を横に振って否定していたというのだが、飛び降りた事実がなかったように主張したいかのようだ。
 万引き事件における姑息なアリバイ偽装工作の事実からも、彼らが「教団謀殺説」を印象づけるために、さまざまな「偽装」を行っていたことは容易に想像できる。自分を守るためならどんなウソでも平然とつく矢野穂積の特異な人格から考えれば、多くの事実を捻じ曲げたにちがいない。
 必然的に、草の根事務所内の「残された状況」についても、矢野が都合よく改ざんしていた疑いを前面に立てるべきあろう。カギや靴のヒントがそこに隠されていた可能性は極めて高い。
 転落事件そのものは、朝木明代が自ら起こした事件にちがいなかったが、それが「謀殺説」にすり替えられていく過程は、まさに「草の根」会派が意図的に引き起こしたものだった。いまとなっては≪究極の自作自演劇≫にほかならなかった。「確信犯」の主体は、あくまで矢野穂積であり、朝木直子は“騙された羊”に近かったのかもしれない。(つづく)